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榊原清政

榊原氏は康政の祖父清長の代に伊勢から三河に移り、康政は長政の二男として三河国上野に生まれました。

 室町時代の伊勢国守護仁木義長(にきよしなが)の子孫ともいわれ、伊勢国一志(いちし)郡榊原村(三重県津市)に住し榊原氏を名乗ったと言われています。

 康政は幼少の頃より学問を好み、三河国岡崎の大樹寺で学び、ここで家康に出会いました。このとき家康19歳、康政12歳で、以来、康政は家康の側近として忠功をささげます。

 永禄5年に父・清政が死去、2つ上の兄・清政が家督を継いだのを期に叔父一徳斎(長政弟)の養子になりました。

 徳川家との関わりというと、どうしても四天王ともよばれ活躍した、榊原康政になってしまいますが、身近でしかも影で代々関わってきた榊原は、康政の兄の清政でした。

清政は、家康に仕えて侍大将となりましたが、病弱の為に弟の康政が陣代となる事がよくありました。

 

後に家康の長男・松平信康の傅役となりましたが、1579年信長の命により、松平信康が悲劇の死を遂げ、一生を終えるた後、清政はショックと後悔の念により職を辞して、弟の屋敷に蟄居することになります。(おそらく、この頃に弟に榊原の家督を譲ったものと思われます。)

松平 信康まつだいら のぶやす)は、徳川家康の長男で安祥松平家7代当主で、後に岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父と同様に岡崎三郎(おかざきさぶろう)を名乗っていました。

信康の切腹については、信長の娘で嫁の徳姫が、今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になり、信長に対して12箇条の手紙を書き、酒井忠次に託したことが発端とされています。

 内容は、信康と不仲であることや築山殿は武田勝頼と内通した、と記し、この結果、信長は家康に信康の切腹を要求し、9月15日、幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にて切腹となりました。享年21歳。

 一説では、信長は英邁な信康を恐れたとされますが、父・家康に嫌われ冷遇されている異母弟の結城秀康不憫に思い兄・信康による取り成しで、対面をさせるなど、情の厚い一面もありました。秀康は、満3歳になるまで家康と対面を許してもらえなかったそうです。

 清政は平岩親吉と共に信康の供養の為に、駿河の江浄寺を建立しました。その後も、信康を思って体調を崩すことが多かったそうです。

 慶長11年 、武蔵忍城に冬の鷹狩りに訪れた家康は、病に臥す清政に使者を送りました。

 家康は清政の病を気遣い、これまでの忠誠から、家康が在城している駿府城に近い要害・久能城を清政が守る事を命じます。

 清政は一度は辞退するも、「久能城は駿府城の本丸」として、家康が久能城の重要性を伝え、再度の要請に応えて駿河有度郡に3千石を領する久能城の城代として、入城しています。

 その後も家康は清政を心配し、自ら久能城に見舞って5千俵を与えるなどし、上洛の途上にも再度見舞っており、清政は慶長12年5月2日、62歳で亡くなりました。

 家康の遺言によって、家康が亡くなると亡骸は久能山に埋葬され、二代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営されましたが、久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家でした。

 清政の死後は、駿河国久能山の城番を、清政の次男、清久が継承し、大坂の陣参戦を願うも、久能山は要所の地であることから徳川家康の厳命により、久能山に留まっていました。

 清久は、慶長5年に数え17歳で家康に目通りし、側近くに仕えるようになり、「自分が死んだら墓を守ってくれ」と家康の信頼を得るようになったそうです。

 元和2年4月17日、清久は徳川家康の最後を看取りました。家康の葬儀を取り仕切り、以後も祭主として久能山に留まり霊廟の神事を斎行、元和3年8月28日、夢枕に徳川家康のお告げを受け、名を照久に改めています。

 

徳川家の陰の重臣と言っても過言ではないのが、この榊原清政・照久親子でしょう。この後の、徳川家の繁栄は、この親子が陰でおさめていたから、だったりしたかも。。。

自分の可愛い子供を死なせてしまったことをずっと、胸にあったも、信康をずっと思ってくれた清政への忠義は、なにものにも代えられないことを家康さんは知っていたのかなぁ?立派になりたいからとか、じゃなく、亡き主君を思っての日々を家康にも認められて、清政も、救われたでしょう。

病弱なため、弟のように、大きな武勲はたてられなかったけれど、目に見えないものへの変わらぬ、思い遣りをかけられる人というのは、貴重な人ですね。

昔からの立派なお宅って仏壇が必ずといって有り、繁栄しているお宅はちゃんと、先祖を大事にしていたりします。そのいい例が徳川家じゃないだろうか~と、常々、思っていました。

でも、このように亡くなっても総門番を託せる、また、それを素直にしていった、部下がいたことは、徳川家にとって本当に、陰のかけがえのない人物だったと思います。

その息子も若く血気盛んな年頃でも、この一見、地味な職を、よく、受け持ったなーと感心しました。

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