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榊原康政(1)

榊原康政は徳川四天王 徳川十六神将・徳川三傑に数えられている武将です。

康政は1548年(天文17年)榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)で生まれ、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓となり、三河一向一揆の平定に従軍しました。 

1560年、桶狭間の戦いで今川氏の支配から解放された家康は、三河の国の統一に取り掛かり、尾張の信長とも同盟を結び、三河の国のほとんどが家康の勢力下に入り、この家康の強引な支配に抵抗した一揆が、三河一向一揆でした。

 これは当時、曹洞宗の勢力が強かった三河東部を除いた地域で、本證寺の空誓(蓮如の孫)を中心に、一向宗門徒が、領主である徳川家康に抵抗した約半年間の一揆です。

 一揆の発端は、本證寺(ほんしょうじ・安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ・岡崎市針崎町)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を与えられていました。

 今川氏から独立して間もない家康は、三河の統一には、寺院に許されていたこの特権を剥奪して税を徴収なければ三河全体の統一はできないと考えていました。

 しかし、本證寺に侵入した者を徳川の家臣が捕縛したため、この特権を侵害したことや、従来以上の税を徴収する税制改革が行われ、また、徳川方が上宮寺の付近に砦を築かせ、武将が上宮寺所有の蔵を襲い、米穀を奪った事で、一揆は加速の一途をたどっていきました。

 不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、本證寺の空誓は、門徒を招集して砦を襲撃し、真宗門徒の桜井松平氏家臣や、戦国の世で城を失った吉良氏や今川氏、本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長なども加わりました。

 武将らが一揆に加わると、一揆集団は、そこらへんの武士団に劣らないような状況で、更に、徳川家の家臣の中にも、かなりの数の一向宗門徒がいた事で、彼らの中は、宗教と、主君との板ばさみに悩みながらも、一揆側につく者が多数出てしまいました。

 榊原氏はもともと、三河伊勢伊賀守護を務めた仁木義長の子孫で、松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕えていましたが、酒井忠尚は一揆側につき徳川軍に弓を引きました。

 この酒井忠尚は、徳川四天王の酒井忠次の兄弟で、徳川家では宿老の地位にあった実力者でした。
忠尚は、この混乱に乗じて徳川家康を廃して自分が三河の主となるという野心的な思いで謀反をしたようで、上野城に篭城しました。(しかし一揆が鎮圧されると家康の追討を受けた忠尚は、上野城から逃亡して駿河に逃れたといわれ、その後の行方は不明である)。

三河一帯が大混乱になったこの三河一向一揆は一向宗による宗教戦争と、その混乱に便乗して有力豪族が反徳川家を掲げて挙兵する二つの思惑が重なる複雑な騒動となり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れました。

 しかし、康政らのめざましい活躍などによって何とか一揆を鎮圧した家康は、以後、この城に「上野七人衆」と言う在番衆を置いてこの地を統治しました。

 

康政は、初陣となった三河一向一揆との戦いで功を挙げ、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられています。

 三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされています。

敵から「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方につくなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけた争いとなりました。

 

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