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土師の里~道明寺

大和川の支流の石川近くの道明寺は、真言宗の尼寺です。

近鉄の道明寺駅の西、または土師ノ里駅の南、いずれも数百メートルのところにあります。

平安時代には、土師氏を祖先とする菅原道真公の伯母覚寿尼が土師寺(道明寺)に住んでいたことから、道真公は度々当寺を訪れたことが伝えられています。

とくに、901年(延喜元年)、道真公が都を離れ太宰府へ左遷される際、一夜の暇を許され寺に立ち寄り覚寿尼に別れを告げ「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鳥の音の なからん里の あかつきもかな」との歌を残し、別れを惜しんだと九州へ赴かれたと伝えられています。

道真公の死後、土師寺を道明寺に改称し現在にいたっていますが、これは道真の号である「道明」に由来するそうです。

このお寺のご本尊は、聖徳太子立像と十一面観音菩薩立像の二体で、ここの十一面観音菩薩は、「試み観音」と称され、表面は彩色や漆箔にせず、頭髪、眼、唇等にわずかに絵具を挿しただけで、あとは木肌のまま仕上げた檀像彫刻です。

頭上に十一面、目には黒い別の材質(石か)をはめ込んでおり、均整のとれた体躯と相まって温雅端正な形とお姿が特徴的なのだそうです。

1575年には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するものの、後に再興。

1872年の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転しました。

昭和27年国宝に指定され、毎月18日と25日には、厨子の扉が開かれ、本尊を拝観することができます。

また、この地域には伝応神陵をはじめ大型古墳が集中しています。

この地は古代には、志紀郡土師(はじ)郷といいました。

奈良、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれていました。

土師氏が本拠地としていた所で、その名がつき、 奈良の古代豪族だった土師氏は技術に長じ、4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間、古墳時代の中期を代表する古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族です。

古墳の築造、埴輪などの製作をはじめ、葬礼にかかわる職能を有した古代豪族でした。

土師氏に関する伝承は2つあり、一つは『日本書紀』垂仁7年7月7日条に 【大和に力自慢の当麻蹶速(タイマノケハヤ)という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速と、対戦したところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折り、殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。 そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、】とあります。

「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測され、後世、野見宿祢と共に相撲の神とされ、奈良県桜井市の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られています。

野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具で「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材とかかわっていたと言う推定があります。

この伝承は、石材を供給する二上山(ふたかみやま・雄岳山頂には葛木二上神社)の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆しています。

もう一つは『日本書紀』垂仁32年7月6日条に【土師氏は野見宿禰(のみのすくね)を祖先とする氏族で、それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人の代わりに埋めることを天皇に奏上し天皇は、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとあります。】

しかし、巨大前方後円墳の時代は去り、大化の薄葬令や火葬の普及に伴う墳墓の簡素化もあって、土師氏は律令の官人への転身をはかったとされ、8世紀後半には従五位下をこえる位を得る人材を輩出し、「凶礼」にかかわってきた一族であるというイメージを払拭するためにか?改姓を願って許されたそうです。

秋篠氏、大枝(のち大江)氏、菅原氏の3氏は、土師氏が改姓した一族です。

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