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2011年10月

GLAY / HOWEVER

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榊原清政

榊原氏は康政の祖父清長の代に伊勢から三河に移り、康政は長政の二男として三河国上野に生まれました。

 室町時代の伊勢国守護仁木義長(にきよしなが)の子孫ともいわれ、伊勢国一志(いちし)郡榊原村(三重県津市)に住し榊原氏を名乗ったと言われています。

 康政は幼少の頃より学問を好み、三河国岡崎の大樹寺で学び、ここで家康に出会いました。このとき家康19歳、康政12歳で、以来、康政は家康の側近として忠功をささげます。

 永禄5年に父・清政が死去、2つ上の兄・清政が家督を継いだのを期に叔父一徳斎(長政弟)の養子になりました。

 徳川家との関わりというと、どうしても四天王ともよばれ活躍した、榊原康政になってしまいますが、身近でしかも影で代々関わってきた榊原は、康政の兄の清政でした。

清政は、家康に仕えて侍大将となりましたが、病弱の為に弟の康政が陣代となる事がよくありました。

 

後に家康の長男・松平信康の傅役となりましたが、1579年信長の命により、松平信康が悲劇の死を遂げ、一生を終えるた後、清政はショックと後悔の念により職を辞して、弟の屋敷に蟄居することになります。(おそらく、この頃に弟に榊原の家督を譲ったものと思われます。)

松平 信康まつだいら のぶやす)は、徳川家康の長男で安祥松平家7代当主で、後に岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父と同様に岡崎三郎(おかざきさぶろう)を名乗っていました。

信康の切腹については、信長の娘で嫁の徳姫が、今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になり、信長に対して12箇条の手紙を書き、酒井忠次に託したことが発端とされています。

 内容は、信康と不仲であることや築山殿は武田勝頼と内通した、と記し、この結果、信長は家康に信康の切腹を要求し、9月15日、幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にて切腹となりました。享年21歳。

 一説では、信長は英邁な信康を恐れたとされますが、父・家康に嫌われ冷遇されている異母弟の結城秀康不憫に思い兄・信康による取り成しで、対面をさせるなど、情の厚い一面もありました。秀康は、満3歳になるまで家康と対面を許してもらえなかったそうです。

 清政は平岩親吉と共に信康の供養の為に、駿河の江浄寺を建立しました。その後も、信康を思って体調を崩すことが多かったそうです。

 慶長11年 、武蔵忍城に冬の鷹狩りに訪れた家康は、病に臥す清政に使者を送りました。

 家康は清政の病を気遣い、これまでの忠誠から、家康が在城している駿府城に近い要害・久能城を清政が守る事を命じます。

 清政は一度は辞退するも、「久能城は駿府城の本丸」として、家康が久能城の重要性を伝え、再度の要請に応えて駿河有度郡に3千石を領する久能城の城代として、入城しています。

 その後も家康は清政を心配し、自ら久能城に見舞って5千俵を与えるなどし、上洛の途上にも再度見舞っており、清政は慶長12年5月2日、62歳で亡くなりました。

 家康の遺言によって、家康が亡くなると亡骸は久能山に埋葬され、二代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営されましたが、久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家でした。

 清政の死後は、駿河国久能山の城番を、清政の次男、清久が継承し、大坂の陣参戦を願うも、久能山は要所の地であることから徳川家康の厳命により、久能山に留まっていました。

 清久は、慶長5年に数え17歳で家康に目通りし、側近くに仕えるようになり、「自分が死んだら墓を守ってくれ」と家康の信頼を得るようになったそうです。

 元和2年4月17日、清久は徳川家康の最後を看取りました。家康の葬儀を取り仕切り、以後も祭主として久能山に留まり霊廟の神事を斎行、元和3年8月28日、夢枕に徳川家康のお告げを受け、名を照久に改めています。

 

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榊原康政(1)

榊原康政は徳川四天王 徳川十六神将・徳川三傑に数えられている武将です。

康政は1548年(天文17年)榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)で生まれ、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓となり、三河一向一揆の平定に従軍しました。 

1560年、桶狭間の戦いで今川氏の支配から解放された家康は、三河の国の統一に取り掛かり、尾張の信長とも同盟を結び、三河の国のほとんどが家康の勢力下に入り、この家康の強引な支配に抵抗した一揆が、三河一向一揆でした。

 これは当時、曹洞宗の勢力が強かった三河東部を除いた地域で、本證寺の空誓(蓮如の孫)を中心に、一向宗門徒が、領主である徳川家康に抵抗した約半年間の一揆です。

 一揆の発端は、本證寺(ほんしょうじ・安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ・岡崎市針崎町)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を与えられていました。

 今川氏から独立して間もない家康は、三河の統一には、寺院に許されていたこの特権を剥奪して税を徴収なければ三河全体の統一はできないと考えていました。

 しかし、本證寺に侵入した者を徳川の家臣が捕縛したため、この特権を侵害したことや、従来以上の税を徴収する税制改革が行われ、また、徳川方が上宮寺の付近に砦を築かせ、武将が上宮寺所有の蔵を襲い、米穀を奪った事で、一揆は加速の一途をたどっていきました。

 不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、本證寺の空誓は、門徒を招集して砦を襲撃し、真宗門徒の桜井松平氏家臣や、戦国の世で城を失った吉良氏や今川氏、本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長なども加わりました。

 武将らが一揆に加わると、一揆集団は、そこらへんの武士団に劣らないような状況で、更に、徳川家の家臣の中にも、かなりの数の一向宗門徒がいた事で、彼らの中は、宗教と、主君との板ばさみに悩みながらも、一揆側につく者が多数出てしまいました。

 榊原氏はもともと、三河伊勢伊賀守護を務めた仁木義長の子孫で、松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕えていましたが、酒井忠尚は一揆側につき徳川軍に弓を引きました。

 この酒井忠尚は、徳川四天王の酒井忠次の兄弟で、徳川家では宿老の地位にあった実力者でした。
忠尚は、この混乱に乗じて徳川家康を廃して自分が三河の主となるという野心的な思いで謀反をしたようで、上野城に篭城しました。(しかし一揆が鎮圧されると家康の追討を受けた忠尚は、上野城から逃亡して駿河に逃れたといわれ、その後の行方は不明である)。

三河一帯が大混乱になったこの三河一向一揆は一向宗による宗教戦争と、その混乱に便乗して有力豪族が反徳川家を掲げて挙兵する二つの思惑が重なる複雑な騒動となり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れました。

 しかし、康政らのめざましい活躍などによって何とか一揆を鎮圧した家康は、以後、この城に「上野七人衆」と言う在番衆を置いてこの地を統治しました。

 

康政は、初陣となった三河一向一揆との戦いで功を挙げ、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられています。

 三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされています。

敵から「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方につくなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけた争いとなりました。

 

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土師の里~道明寺

大和川の支流の石川近くの道明寺は、真言宗の尼寺です。

近鉄の道明寺駅の西、または土師ノ里駅の南、いずれも数百メートルのところにあります。

平安時代には、土師氏を祖先とする菅原道真公の伯母覚寿尼が土師寺(道明寺)に住んでいたことから、道真公は度々当寺を訪れたことが伝えられています。

とくに、901年(延喜元年)、道真公が都を離れ太宰府へ左遷される際、一夜の暇を許され寺に立ち寄り覚寿尼に別れを告げ「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鳥の音の なからん里の あかつきもかな」との歌を残し、別れを惜しんだと九州へ赴かれたと伝えられています。

道真公の死後、土師寺を道明寺に改称し現在にいたっていますが、これは道真の号である「道明」に由来するそうです。

このお寺のご本尊は、聖徳太子立像と十一面観音菩薩立像の二体で、ここの十一面観音菩薩は、「試み観音」と称され、表面は彩色や漆箔にせず、頭髪、眼、唇等にわずかに絵具を挿しただけで、あとは木肌のまま仕上げた檀像彫刻です。

頭上に十一面、目には黒い別の材質(石か)をはめ込んでおり、均整のとれた体躯と相まって温雅端正な形とお姿が特徴的なのだそうです。

1575年には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するものの、後に再興。

1872年の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転しました。

昭和27年国宝に指定され、毎月18日と25日には、厨子の扉が開かれ、本尊を拝観することができます。

また、この地域には伝応神陵をはじめ大型古墳が集中しています。

この地は古代には、志紀郡土師(はじ)郷といいました。

奈良、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれていました。

土師氏が本拠地としていた所で、その名がつき、 奈良の古代豪族だった土師氏は技術に長じ、4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間、古墳時代の中期を代表する古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族です。

古墳の築造、埴輪などの製作をはじめ、葬礼にかかわる職能を有した古代豪族でした。

土師氏に関する伝承は2つあり、一つは『日本書紀』垂仁7年7月7日条に 【大和に力自慢の当麻蹶速(タイマノケハヤ)という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速と、対戦したところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折り、殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。 そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、】とあります。

「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測され、後世、野見宿祢と共に相撲の神とされ、奈良県桜井市の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られています。

野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具で「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材とかかわっていたと言う推定があります。

この伝承は、石材を供給する二上山(ふたかみやま・雄岳山頂には葛木二上神社)の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆しています。

もう一つは『日本書紀』垂仁32年7月6日条に【土師氏は野見宿禰(のみのすくね)を祖先とする氏族で、それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人の代わりに埋めることを天皇に奏上し天皇は、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとあります。】

しかし、巨大前方後円墳の時代は去り、大化の薄葬令や火葬の普及に伴う墳墓の簡素化もあって、土師氏は律令の官人への転身をはかったとされ、8世紀後半には従五位下をこえる位を得る人材を輩出し、「凶礼」にかかわってきた一族であるというイメージを払拭するためにか?改姓を願って許されたそうです。

秋篠氏、大枝(のち大江)氏、菅原氏の3氏は、土師氏が改姓した一族です。

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透明人間

朝から頭の中でリピートされてるこの曲。。。。

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