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2011年6月

Last Love Song

「Mind Travel」リリース記念 Free Live at 横浜赤レンガ倉庫 2011.06.15

6月15日(水)
OPEN 19:00 / START 20:00(予定) / 終演予定 21:00
会場:横浜赤レンガ倉庫イベントスペース(野外)
料金:入場無料
*当日AM10:00から入場整理券配布。定員:予定配布枚数終了次第
*整理券をお持ちでない方も、赤レンガパーク内で鑑賞して頂くことは可能です。
お問い合わせ:H.I.P 03-3475-9999

いい歌だなー。 ライブは入場無料だって~。

朝十時に整理券配布なんだ。。。野外だからお天気、いいといいね。

しほちゃん、がんばってー。

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butterfly 倖田來未

butterflyっ蝶って芸能人で好きな人多いですね。

浜崎あゆみも蝶にロゴの入ってるグッズを作ってるし、中島美嘉も蝶が好きなんだった。

蝶、カッコイイのね。蛾は気持ち悪いけど。。。

キリスト教では蝶は復活の象徴とされ、ギリシャでは魂や不死の象徴とされるそう。

蝶を死霊の化身とみなす地方もあり、立山の追分地蔵堂で生霊の市といって、毎年7月15日の夜に多数の蝶が飛ぶという言い伝えや秋田県山本郡では蝶の柄の服を好む者は短命だといわれてるとか・・・

家紋に、「蝶紋(ちょうもん)」ってあるそうだけど・・・何か聞こえ悪いね(゚ー゚;

浜崎あゆみと倖田來未って、MCが上手そうだ。仕切り上手なのかな?って思う。

安室奈美恵も中島美嘉もMCは苦手なんだそうだ。

安室奈美恵はMCなしでライブをやってしまうそう。 苦手だし、ライブの全体の流れとして無い方がキレイに収まる感じがするらしい。。。ある意味、仕切ってるんだね。

中島美嘉は苦手でも、MCするんだそう。中にお客さんとQ&Aコーナーがある?

お客さんの質問に中島美嘉が答えるらしい。

苦手でもお客さんとコミュニケーション取ろうとするのは、とても努めてる感じがして好印象だわ。

だけど、中島美嘉のライブでは前列に席が取れると、握手できたり、プレゼント渡したりもできてお得なんだって。

他のライブ行ったことある人には、ちょっと奇異な光景だろうなぁ。握手はあるのかも???だけど、プレゼントは大衆演劇でおひねりもらう感じにも見えるね。

物には、おもい入れが入ってるんだろうなー。 ライブ中にするからだけど。

よく会場に設けてるボックスにいれてくださいってのなら見たことある。

仕事中にアルコール摂取しちゃーいけない感じするのと同じでよろしくない感じがするけど、ご本人の自由か。

でも、前列の人だけずるーいってことによくならないなー。プレゼント持って来た人なら、全員、いいわけじゃないよね。ヾ(;´Д`A

後ろの人もあげたいとかならないのかな。。。ライブレポにもちょっと、前の人とのやりとりが長かったってあったな。。。

いい意味で「アットホーム」悪い意味で「境、けじめがない」 握手できるなら、ヤフオクに高値でチケット出品されたりしそうだ。

常連さんとの絡みで、もうやめられないかもしれないけど・・・

前列の人は、それだけでラッキーなわけで、それ以上はいいんじゃないだろうか。。。

声の調子は病気で仕方がなくても、他のことで多くのお客さんに気遣いができてないと、何言われてもしかたないかもね。後ろの人は、歌手の顔、豆粒に見えるんだから。

この前の記事、甘口だったかな。。。と、ちょっと思った。

お金を払ってお客さんに来てもらうって、きちんとしなくちゃいけないのかもしれないから、厳しい意見もあるかもしれないけど。。。

ライブレポ書いた人の気持ちも何となく「プロ」でしょって観れば、そうなのかも。。。

でも、じゃあ、口パクで合わせていたらそれでいいか?って嫌だろうし、彼女が一番、今、音が外れたとかわかってるんじゃないかなー。

あんなにお洒落で、センスよくて、美人で、歌も上手くて、いつもカッコイイ女してる彼女が、耳が音に慣れなくて苦しんでる。

それでも、思いを込めて大切に歌ってるその姿に何か感じれたらいいと思う。

Q&Aのコーナーも全員が参加できる形が、いいのだろうと思うけど。

多くのファン相手に公平にって大変だね。

でも、安室ちゃんのMCなしって、ちょっと心配!?

今はいいけど、ずっと体力がそのままじゃないのだから、やっぱりMC慣れを今からしておいたらどうだろう。。。 それに、声を聞きたいって人もいるだろうし。

MCのやりとり、一人より誰かいた方がやりやすいのかな?

この浜崎あゆみとよっちゃんのやりとりは、しやすそうだなぁ。。。

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ツタヤでレンタル中

ayu-mi-x7-version Acoustic Orchestra- ■ 浜崎あゆみ

中島美嘉/STAR

安室奈美恵/Checkmate!(CDのみ)

昨日、8日に借りたぁ。 中島美嘉だけ15日になってる一週間レンタルか。。。

8日に借りたけど、新作あるから今日9日に返却に行かねば~。

安室ちゃん以外はツアー開催中。安室ちゃんは静岡から?

みなひゃん、がんばってください。happy02

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曼荼羅について

曼荼羅とは、仏教(特に密教)において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものです。

視覚でその様相を観ることができたため、言葉だけではわからない、感じ取れない人に向けて、仏教を理解するために視覚から入りやすく広く親しまれたものだと思います。

日本語では通常、仏教の世界観を表現した絵画等のことを指します。

日本においては、大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置した両界曼荼羅(りょうかいまんだら)、阿弥陀如来のいる西方極楽浄土の様子を表した「浄土曼荼羅」、神道系の「垂迹(すいじゃく)曼荼羅」などの作品が多いそうです。

垂迹曼荼羅 は、日本の八百万の神々が様々なの姿で現れたものを「垂迹神」と言いい、わが国在来の神々を本地仏または垂迹神として、仏教の曼荼羅風に表現した絵画作品を指しており、代表的なものに熊野曼荼羅、春日曼荼羅、日吉山王曼荼羅などがあります。

中で大日如来はアマテラス大神の垂迹とされています。阿弥陀如来は、立山では伊弉諾尊、熊野ではスサノオ尊とされています。

不動明王も立山では 天手力男神、熊野では水波能売命(水神)となっています。場所によって七変化されるのでしょうか?

でも、立山信仰で伊弉諾尊の息子のスサノオ尊が副神ではなく、天手力雄神なのは不思議な感じがしました。

一般的に浄土というと、阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すことが多く、浄土曼荼羅の浄土とは、清らかな国の意で、仏様が住んでいる神聖な場所をいいます。

立山曼荼羅は、この三つの曼荼羅を合わせたものと、日輪(太陽)・月輪(月)や参詣者、主題である立山開山縁起の幾つかの場面、阿弥陀如来と諸菩薩の来迎場面、立山山麓・山中の名所や旧跡、芦峅寺の布橋大灌頂法会(ぬのばしだいかんほうじょうほうえ:女人救済儀式)の様子、十王曼陀羅の地獄絵図を立山の山岳景観を背景としてに描いているものだと思います。

十王曼陀羅とは、十王図、九相図、地獄絵図をあわせたものを多重に表現された絵で、全七巻で、七巻の巻末にまとめて四王、四仏(九相図の四図も)が描かれています。

十王経」に、死者は7×7=49日の毎7日、100ヶ日、一周忌、三回忌に順次に十王庁において罪の裁きを受けるとあり、その様子を絵にしたのが「十王曼陀羅(一般に地獄絵)」だそうです。

【一巻】本地仏・不動明王が。初七日、三途の川を渡ると、死出の山の山登りから始まり、脱衣婆が衣類のみならず、現世における名誉財産、亡者の持っていた全ての物をはぎとり”はだか”となって十王の裁きと地獄の責め苦をうけることになる。希に罪軽くして雲や蓮華台に乗り極楽へ行くものもあるとされる。

【二巻】本地仏・釈迦如来、死後14日目。賽の河原地獄”がある。十歳に満たない子供が河原の石を積んで回向の塔を作るのが課された贖罪の仕事で、それを崩して責めるのは地獄の鬼と救済する地蔵菩薩、八寒地獄の氷之池地獄などが描かれている。

【三巻】死後21日目、本地仏・文殊菩薩の畜生、修羅、殺生の責め地獄など。

【四巻】死後28日目、本地仏・普賢菩薩、山に挟まれる盤石叫喚、網の上で焼かれる熱陽地獄、大焦熱地獄など。

【五巻】死後35日目、閻魔王:本地仏・地蔵菩薩により、生前の行いを映し出される”浄玻璃の鏡”で罪を明らかにされ「言い逃れは許されないすべてお見通し」の様があり、無間地獄までまっ逆さまに二千年間堕ちる無間墜落隊、嘘をついた者が舌を抜かれたり、舌を何百倍にも引き延ばされて、杭を打たれる。

【六巻】死後42日目、酒の滝があり、溺れ苦しむ酒亡者が描かれている。本地仏・弥勒菩薩

【七巻】には、死後49日目・薬師如来、死後百ヵ日目・観音菩薩、一周忌・姿勢菩薩、三周忌・阿弥陀如来と※九相図の四図も描かれており、中ほどに衆僧によって諸亡者供養の様子があり、供養の功徳によりつぎつぎと亡者が成仏している。

その下には、両頭蛇の地獄図がある。不邪淫戒を犯した男が双頭の女にからまれて苦しんでいる図がある。

※九相図:美しい人も一皮剥けば、ただの肉と骨と内臓でその内臓には汚物がつまっているということを表している。生前いくら美しくても死んでしまえば、見る影も無く腐敗して悪臭を放ち、やがて滅びるという意があるようである。

十王は死後の裁判官のことで、あの世は十審制であると説いています。

【五巻】の生前の行いを映し出される”浄玻璃の鏡”は嘘は隠せない良心が全て、ふるいにかけられて、審判にかけられるようですね。神様が生まれる前に私たち、埋め込んだ鏡によって記憶がここで、再生されるのでしょうか。。。天孫降臨の際にアマテラス大御神が「この鏡を私の御魂と思って・・・」と言ったように、私たちにもきっと、鏡があるんですね。あっ、これはリーマンさんが、前に言っていたかも!?

でも、熊の伝説からして、熊野権現のスサノオ尊でもおかしくないようなぁー。白鷹が伊弉諾尊だったのじゃ・・・猿は岩戸隠れの伝説で岩戸の外へ引きずり出した、男神の天手力雄神や思金神?そして、金色の鹿はジャータカ物語( お釈迦さまがこの世に金色の鹿として生を受けたときの お話)から、釈迦如来であったのかなぁ?釈迦の垂迹は白山権現ともあり、十一面観音という顔がたくさんある観音様だから、有かも???・・・という想像が広がります。

今日はこの辺で。。。

読んでいただいて、ありがとうございます。

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日本三霊山の一つ立山 №2

この立山では、仏が衆生を救うために地獄と極楽を現したとされました。

立山は、中腹から山頂までに餓鬼田や地獄谷、みくりが池など、地獄や極楽を想像させる景観が連なっており、徒歩による長時間の登山の末に目に入る景色は死後の世界を具現化しているものといえます。

立山信仰では仏教の広まり、浸透に伴って日本ではその土着の他界観と仏教が交わり、祖霊の鎮まる山中こそが外来宗教の仏教が示すものだと信じられるようになり、地獄の亡者に対する審判や責め苦などの具体的な内容は、壮大な体系をもつ仏教に依拠しましたが、その場所については、自分たちの根源的な考え方に基づいて、山中に見出したようです。

その際、立山は山中に火山活動の影響で荒れ果てた景観を有し、地獄を見出すには格好の場所でした。

中でも地獄谷は、火山ガスを噴出するイオウの塔、熱湯の沸き返る池、至る所からの噴気が見られて、また特有の臭いもあり、そこは不気味な谷間となっています。

こうした特異で非日常的な景観が地獄の様子に見立てられ、立山の信仰が生まれたものと考えられます。

立山浄土としては、立山三山、なかでも雄山は仏そのものであり、阿弥陀浄土とされました。

立山地獄は、現在の地名にも残る地獄谷であり、硫黄臭ただよう場所です。

その近くのみくりヶ池は、血の池として、また、剱岳は針山地獄であるとされました。

剱岳は古来、雄山神社の祭神の一柱である天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の神体として信仰を集めて来ました。一方、立山信仰では「針山地獄」とされ立山連峰のほかの頂きから参拝する山とされ、登ることが許されなかったとか。。。

弘法大師がわらじ千足(三千、六千ともいう)を費やしても登頂できなかった、という伝説がありますが、日本国内で「一般登山者が登る山のうちでは危険度の最も高い山」とされています。

立山を巡拝することで死後の世界を擬似体験し、「他界」に入り「死」から戻ってくるという修行を積むことができ、超常的な力(法力)を身に付けることができると考えるようにもなりました。

地獄谷というと、、1876年9月5日に改称される前までは、箱根の大涌谷も地獄谷と呼ばれていました。同じように火山ガス や硫黄ガスが噴出しています。でも、ここまで、地獄を如実に表現しているとは、びっくりしました。

中でも血の池地獄と針山地獄は、よく昔話で閻魔大王さまに、お告げを受けることで有名な場所なような。。。

でも、血の池地獄って別府の地獄めぐりの中にもありますね。煮えたぎる粘土でできた血のように赤い地獄で、自然の地中より湧き出たもので血の池軟膏を作ってるんだよね。万葉集の中でも「赤湯泉」等としても知られてる歴史ある地獄で酸化鉄などによって朱色に染まっていることからこの名があるそうだけど。。。

血の池って、一番、ラクそうな地獄っていう考え方もあるみたいw。本当にそうなのかしら?血に浸かるだけだから?きっと、温泉のように温度が高いと思うけど。

剣岳は、剣術習ってたら上手くなる?そんなことないか。。。とにかく険しい山だからおちゃらけてはいけないのでしょう。浅野忠信・香川照之・仲村トオル・出演の映画にもなってたなぁ。

針山って、針灸の針だったりしたら、癒されるかしら・・・別府温泉なら浸かりたいな~。この頃、肩が重いもんね。。ついつい、こんな発想になってしまってごめんなさい。coldsweats01

立山曼荼羅といった詳しくその様子を描いている曼荼羅もあるそうなので、次はその様子を書いてみます。

読んでいただいてありがとうございます。

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日本三霊山の一つ立山 №1

立山は標高3,015mの古くから日本の山岳信仰の山として、日本三霊山の一つで有名です。

黒竜大明神はお気に召すかしら~?どんな山だったのか知ってみます。

立山は雄山(おやま、3,003m)、大汝山(おおなんじやま、3,015m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999m)の3つの峰の総称です。

開山以前、万葉集に「皇神の領(うしは)き坐す」(神による統治の意の)山とあり、もともと信仰の対象であったものが、平安初期の真言宗・天台宗の山岳仏教が混ざったようです。

雄山神社の主神は伊弉諾尊(イザナギノミコト:立山権現雄山神:本地仏は阿弥陀如来)で、天手力男神(タヂカラオノミコト:太刀尾天神剱岳神:本地:不動明王)を副神とする。

峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社としていて、芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域が雄山神社の所在地となっています。

古代には立山権現として、平安時代からは地獄極楽のある山として阿弥陀信仰と結びついてきたという移り変わりが見られ、開山縁起によると、神々が種々の姿で現れて実は阿弥陀如来であったとあるように神仏習合と同じです。

立山信仰の中心となる立山寺(りゅうせんじ)・芦峅寺・岩峅寺を開いたのは、白山の泰澄のような修験者ではなく、奈良時代の越中の国の守(かみ)佐伯有若の息子、佐伯有頼がであったとされ伝説があります。

~開山伝説~

昔々、今から約1300年余り前、今の立山町が、常願寺川の氾濫の繰り返しで、荒れ野原だったころのことです。

人々は水の便のよい土地を選んで住み、田畑を耕して、苦しい生活を送っていました。 ある夜、文武天皇は、不思議な夢を観ました。

夢に、阿弥陀如来が現れて天皇に「今、越中は、人々の争いが絶えず、苦しい生活をしている。近江(現在の滋賀県)の佐伯有若を国守にして治めさせれば、必ず、平和で豊かな国になるだろう」
という夢でした。

さっそく天皇は、有若を呼び、すぐに、越中国を治めるように命じました。

そこで有若は、近江の志賀を出発し、越中へ向かいました。何日も歩いて、ようやく倶利伽羅峠までやってきて、ほっと一息ついていると、どこからか、一羽の白い鷹が舞いおりて、有若の肩にとまりました。有若は、大変喜び、『白羽の鷹』と名付け、大切に育てることにしました。

有若は、一生懸命に国を治めたので、争い事はなくなり、人々は安心して農作業に精を出すようになり、しだいに平和で豊かな国になっていきました。
しかし、有若には跡継ぎの子供がいませんでした。

ある夜、夫婦の枕元に、立山の大汝の神様が現れ、「お前たちに、男の子をさずけよう。有頼と名付け、大事に育てよ」と、告げました。 その一年後、お告げの通り丸々とした男の子が生まれ有頼は、すくすくと成長し、たくましい少年になっていきました。そして、有頼も、白い鷹をたいそうかわいがっていました。

有頼16歳になった春、父の大切にしている白い鷹を、内緒で借り、喜び勇んで、一人で鷹狩りに出かけました。

ですが、狩りの途中で白鷹を逃がしてしまい、城に帰ると謝っても、父はたいそう腹を立て「あの鷹を捜してきなさい。そうしなければ、城に帰ってはならぬ」と、厳しくしかりました。

有頼は、あちこち捜し歩き、常願寺川までやってくると熊が現れ、有頼が矢で熊を射ると、熊は血を流しながら逃げていきました。有頼は、熊を追ってどんどん進むと、辺りはますます険しくなってきました。目の前は、深い谷で、向こう側には行けそうにありません。

思案にくれていると、どこからともなく数十匹のサルが集まり、藤のツルを持ち寄り、架け橋を造り、瞬く間に姿を消しました。

あっけにとられていた有頼ですが、その橋を渡り、奥山へ進もうとしました。

すると今度は、金色の大シカが現れ、前に立ちはだかり、行く手を遮りました。

有頼は、刀を抜いてその大シカに立ち向かい、倒そうとしましたが、大シカの気に当てられ、その場に倒れてしまいました。

しばらくして息を吹き返した有頼は、立ち上がり、岩かげに芽生えている青草をとって食べると、不思議と体中に力がみなぎり元気を取り戻しました。

固い雪渓と岩壁を伝い、熊の血の跡を辿って山を登りました。いくつかの坂を越えたとき、辺りが真っ暗になり、稲妻がひらめき雷鳴がとどろき、突然うなり声をあげた雷獣が暗闇から襲いかかってきました。

有頼は、刀を抜いて切りつけると、たしかに手応えがあり、急に周りが明るくなり雷鳴もおさまりました。

それから、険しい山を這うように登っていきましたが、遂に力つき、動けなくなったその時です。仏様の優しく語りかける励ましの声がどこからともなく、聞こえてきました。
有頼はそれをじっと聞くと、疲れもなおり、その険しい坂を、スイスイと登ることができました。

登った坂の向こうには、雲上から落下する荘厳な大滝(称名滝)が光り輝いていました。天から落ちてくるその滝の神々しさに、思わず地にひれ伏して有頼は拝礼しました。

命がけの、苦しい、そして大変な出来事が次々に起こり、さすがの有頼も、この先またどんなことが起きるのか、不安になってきました。

が、諦めず、捜し続けまた、大きな岩肌を這い上がり、立ちふさがる、はい松の枝をおしはらいながら進み、立山の頂上間近、雲上の高原に立っていました。

そして、雪の上に点々と残っている血の跡をたどり、崖の中腹にぽっかりあいた洞穴にたどり着きました。

「ここに大熊がいる。今度こそ、必ず射止めるぞ」一歩一歩と、注意深く洞穴に踏み込みました。

しかし、有頼の目に入ったのは大熊ではなく、さん然と黄金色に光り輝く、美しい阿弥陀如来様のお姿でした。 しかも、その仏様の左胸には大熊を射たあの矢が深く突き刺さっていましたが、にこにこ笑っておいでになるではありませんか。。。

有頼はびっくりして「熊とばかり思って追いつめたのは阿弥陀如来様だったのですね。本当に悪いことをしました」と、その場にひれ伏しました。そして、その夜、洞穴で通夜をしてお詫びをすることにしました。

すると、阿弥陀如来様はお話になりました。

「私は、この立山に地獄を造り、極楽も造りました。立山に登れば、人々はいろいろな悩みから解放されます。とても尊い山です。けれども、立山はまだ誰にも知られていません。登る道もありません。

多くの迷っている人々を救うため、姿をかえて、白鷹になり、大熊になり、時にはサルや大シカ、そして雷獣となり、そなたをここまで呼び寄せました。 そなたは、本当に力強い頼りになる男です。どうかこの立山を開いて、国中の人がお参りできるように、一生懸命つとめてください。」

仏様のお言葉に、強く心をうたれた有頼は、さっそく城に帰り、父にこの話をしました。

父は、有頼を許したばかりか、有頼にいっそう修行を積ませました。 有頼は弓矢を捨て、仏門に入り『薬勢上人』という偉いお坊さんに教えを受け、名を『慈興』と改め、信仰の道に精進しました。

そして約束通りに、草木をはらい、岩石を取り除き、険しい坂に道をつけ、その頂上に社を建て、さらには、ふもとの芦峅寺や岩峅寺にお寺を建て、信仰としての立山を開くために、つとめ、慈興上人とよばれる立山の開山として仰がれるようになったという伝説があります。

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黒龍大明神

5月27日の記事にある、国土を護るために国の四隅に祀られた大明神について想像を混ぜながら考えてみました。

「東には常陸の鹿島大明神、西には、厳島大明神、南には熊野大明神そして北には越前の黒竜大明神がおかれた」この部分ですけど・・・

越前の黒龍大明神だけ、神社の名前が入ってないです。なんでだろう?

東と西の鹿島と厳島大明神は海が近い。

熊野は海も山もある。越前は足羽山(あすわやま)があるのだけど、今は公園になっているのどか~なところです。

黒龍のような、カッコいい?厳しそうな龍を預けるにはちょっと迫力に欠けるかも。。。

なんとなく標高と方位で、熊野と対になるような山を持っていて海に近く、山岳信仰をしていた山をもつところが似合っている、富山・新潟・長野がよいと思うのだけど。

とりあえず、近いので富山に行ってみましょう。

                           つづく

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一番綺麗な私を

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花筺(はながたみ)

継体天皇と目子媛をモデルにした謡曲「花筺」があります。

~あらすじ~

今から1500年ほど前、越前の国・味真野にいた男大迹(おおあとめ:後の継体天皇)皇子と照日の前(てるひまえ)は、仲睦まじく暮らしていました。照日の前が目子媛とされています。

しかし、皇位継承のため男大迹は、急に都へ上ることとなり、日頃そばにおいて寵愛していた、照日の前のもとへ別れの手紙と花かご(花筺)を届けさせます。

照日の前は形見の花筐を抱いて悲しく我が家へと帰ります。しかし、王への思いが募るばかりで、物狂いして狂女となり花筺を持ち、供の女一人を連れて都に向かう照日の前。

即位して継体天皇となり、大和の玉穂の宮を都と定めた帝は、ある日、警護の官人たちに守られて紅葉狩に出かけました。

すると、その道筋に侍女に花籠を持たせた狂女が通りかかります。役人が、狂女を追い払おうとして、手に持っていた花筺を払い落とすと、女は狂乱して激しくののしり、泣き叫び、泣き伏しました。

彼女は、帝への恋慕のあまり物狂となった照日の前なのです。

しかし、帝は女を照日の前とは気付かず、車の前で舞を舞えと命じます。

そこで、彼女は「(寵姫)李夫人の舞」を舞います。
やがて帝は彼女が照日の前であることに気がつき、正気に戻った彼女を再びそばにおくことにして、ともに皇居へと連れて帰るのでした。
これは、世阿弥が書いた謡曲で、実話を元にしたフィクションでしょうけど、目子媛の継体天皇への思いをドラマチックに描いているようです。

先日の記事で女九神社を「女苦神社」と、失礼なことを書きましたけれど、過去、高貴な方を邪魔者扱いをしたことを後ろめたく思った反勢力?が、怨霊になって災いが起こらないようにと、高貴な方を神社にお祀りすることがあります。
きっと、そういった経緯で造られた神社ではないかと思います。

主祭神が継体天皇妃9柱だけということでか?この神社は西向きに鎮座され、東側に公園がありますが、住宅街の細く、くねくねしている道が参道で、今は住宅事情等などから袋小路に入り、そのどん詰まりに鎮座されているのだそうです。周辺には中高層の住宅などは多いでしょうけど、産土神とされて地元の方に親しまれてはいるのか?どのようになっているのでしょうか。。。心配。

目子媛の実家、尾張氏は「天火明命(一般的には火明命と呼ばれることが多い)」の子孫だとされ、海部氏など多くの氏族の祖神でもあります。火明命は、京都府宮津市の天橋立の近くにある籠神社の主祭神としても、知られています。

この女九神社周辺は鴨神社?賀茂神社、八坂神社という、いくつか神社があります。そして、少し、離れたところに新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)という神社があるのですが、主祭神が天照国照天彦火明大神(天火明命)となっています。

目子媛のことは、詳しく書き残されていないのですが、本当は正妻だった、目子媛は継体天皇が16歳のときに安閑天皇を出産されていることになります。2歳ほど年下、または年上だったとして、嫁いで42年間は共に過ごしていたことになります。言うなれば親よりも長い年月です。それが、手白香皇女という19歳のお姫様に政略結婚だとしても、正妻の座を譲らなくてはいけませんでした。継体天皇のためとはわかっていても。。。何だかね~。

豊臣秀吉の正室・寧々と側室・淀の年齢差は22歳。目子媛と手白香皇女の年齢差は23歳。寧々には子がいなかったけれど、何となく似てますね。

昔は武将の正室は「忍ぶ」「耐える」の時代で、子孫を残すために、踏みにじられるような思いをたくさんして来ましたね。

子供を産むための道具とまで言わなくても、それを理由に男性の意のままだったかも。

その反動が現代の強い女性を形成しているのでしょうか!?

今日もご訪問をありがとうございます。

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