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2011年2月

無題

私に持たれて
ラクをしようとする
灰色の雲に覆われると
一生このままだと錯覚する
何故?私も灰色になるの?
あなたが灰色になったのは自分で選んだんだよね
私に持たれて、色が変わるのかな?
私に持たれても、無意味だよ。
私を待っても無意味だよ。持たれて待たれると逃げたくなるよ。
私は何もできないよ


早く自分で気がついて
私が決めることじゃない
あなたが決めること

灰色になったのは、私のせいじゃない。

あなたが選んだこと。
強がったりしないで
自分をよく見て

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「Eyes On Me」

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Ⅲ ルミ子さんのお父さん

愛子さんは、ルミ子さんを妊娠したこと知って、女の子だったら自分は果たせなかった夢である「芸能界入り」を実現させたいと思っていました。

生まれる前から父親である光義さんに相談するわけでもなく、自分で心にそう決めていました。

歌が好きで歌手になりたかった愛子さんですが、足が悪く、両親とも早く死に別れて当時は音楽学校を出ていなければ歌手になれなかったため、金銭的に余裕もなく諦めなくてはいけなかった夢をルミ子さんに託したかったのです。

そして、7月2日に生まれたルミ子さんの名前を光義さんに相談なしで「留美子」と決めて、芸能界に入ったら「ルミ子」にしよう。。。そこまで決めていました。

愛子さんは、光義さんが亡くなった後、生活の為、ルミ子さんの宝塚音楽学校の学費を貯めるためにもトラックの仕事を続けていく必要があり、従業員であった5歳年下の忠士さんと再婚します。世間体もあり、光義さんが亡くなってすぐは籍を入れず二年後、忠士さん33歳愛子さん38歳の時に忠士さんと再婚されました。

著書の中には、『恋愛感情は一切ないタイプ』とあり「人柄」で結婚を決めて、婿に来てもらったと書いてありました。忠士さんは、仕事は真面目にこなす、裏のないような人で、この頃は仕事も上手くいき、この時代にこんなにも多くのお稽古ごとの月謝を支払えるのが、凄いと思いました。それもルミ子さんの教育費のために頑張った、愛子さんの底力なのだと思います。

ルミ子さんは幼い頃、芸能界に入る準備として、声楽、クラッシックバレエ、タップダンス、ジャズダンス、ピアノ、日本舞踊、三味線、習字と8つもの習い事をしていました。

愛子さんは、ルミ子さんを宝塚音楽学校に入学させようと早くから決めていたので、ルミ子さんが早く大きくなることを祈り、愛子さんの夢である芸能界入りは、どうすればよいかそればかり考えていました。本の中から、感じたことはルミ子さんは愛子さんの全てのようでした。歌が好きで、運動神経がよく、作文の才能など愛子さんの良いところを全て受け継いだ自慢の娘さんで、自分の小型コピーでもあったと著書に書いてありました。

ここまでを振り返って、ルミ子さんはよくお母さんの期待に応えたなぁ…ということです。

もちろんお母さんが、ルミ子さんの才能を確信しての教育、直感というか目利きがよかったことや周りから厳しすぎると言われても、曲げなかった自分の教育方針を貫き通したことが、ルミ子さんの今の礎だと思います。

しかし、愛子さんの著書を読むと「小柳ルミ子の真実」という題名ながら、愛子さんの出生からのお話で、およそ2/3が愛子さんのこれまでの人生を語っています。
人は男と女から生まれて、父親と母親あっての子供ですが、子の人生を母と娘が共存しているかの道をよく、大きな反抗もせずにやって来られたと感心します。
それは、ルミ子さんが歌やダンスを好きだったことに間違いはないでしょうし、芸能界に入り、歌手になることを、ルミ子さんも望んでいて、愛子さんが決めた目標を一緒に二人三脚であったから果たせたのだとも思いますが、娘の気持ち的な面では何よりもお母さんの喜ぶ顔が見たかった。褒められたかったから、一生懸命だったのではないかと思いました。

愛子さんの娘はルミ子さんだから、できたのかもしれません。それほど、母親の大きな夢を叶えるために毎日が鬼気迫る教えだったのじゃないかと思うくらいです。

ただ、残念なことは、愛子さんのこれまでの苦労から、父親である光義さんのことが、よく伝わらないことです。光義さんとの思い出がどんなに辛くて大変だったかは、当事者である愛子さんでしかわからないですけど、ルミ子さんの体の中には、父親である光義さんの血が流れています。

娘はよく父親に似るとも言いますし、ルミ子さんの美しいお顔はもしかして、お父さんに似てのことかとも思います。
お母さんも、写真を戦地に送り「べっぴんさん」と言われるほどの方だから、私に似てると思われるのも無理もないですが、男性がいなければ子供は生まれませんから、ルミ子さんは光義さんの娘でもあります。

そして、著書を読み終えて思ったことは、全体的に、ムラがあるように感じました。本業の小説家や脚本家ではないのですから、上手く書けないのは当たり前で、こう言っては、身内の方には不本意かもしれませんが、冷静に読むとそう感じます。

愛子さんは、幼少の頃からの祖父からの理不尽な祖母への扱いや、ミッションでの生活をする女性の悲惨さに加えて、光義さんとの結婚生活での、苦労の連続から地獄のような日々も経験したことで、男性という存在を求めながらも否定している感じがしました。

光義さんとの生活がよほど、大変だったと思いますが出産後と亡くなってからの場面で、何度か「男はいらない」という言葉が出て来て、また、秋田で結婚前にもそう思ってらした場面がありました。

そして、そう思いながらもまた再婚をされています。男性は女を不幸にすると嫌いながら、結婚する。著書を読むとふと「ならどうして結婚したんだろう」と思ってしまったり…。

恋は盲目だったり、光義さんが亡くなって女一人で生きてはいけないから結婚したんだと、ご本人がいたら言いそうです…。

確かに、光義さんに愛子さんは散々、苦労を掛けました。
ですが、光義さん無くしてルミ子さんは存在できなかったのですよね。

光義さんの生きて来た軌跡をイメージして辿ると、戦後は荒れてしまっても仕方がない部分もあったと思います。

昨日まで生きて一緒に訓練を受けていた先輩が、死ぬ覚悟をして、飛び立っていきました。

お父さんは「自分も後から必ず行きます」と、先輩と約束して見送って行かれたはずです。死んでお国のために、役に立つなら命に替えて戦おうと決めていたことでしょうし、そう、教育もされて来たと思います。

それなのに、自分は生きてしまった…と、生きて行くことに、前向きになれなかった時間があったのじゃないかと…。

中には戦後、生き残った罪悪感から自殺する元兵士の方もおられたほどですから、生と死の狭間を側で見て感じた人の終戦後の複雑な感情もまた、当事者でなければわからない苦しみだと思います。

光義さんは、結核で亡くなり、「半年入院すれば治る」と言われてました。結局、入院はせず、結核に罹っても仕事を続けました。軌道に乗り始めた仕事でもあったので、続けるしかなかったこともあり、入院しても費用がかかると心配もあったことだと思います。当時はトラックの修繕費などで、借金も重なっていたからです。その病の体を押して、博打に出かけたのは、今度こそ、倍にして家族をラクにしてやろうと思ったからかもしれません。

愛子さんの文の中に「自分勝手に好きなことだけやって死んでしまった。私やルミ子の為に病気を治して何としても幸せにしてやろうという、気持ちはなかった夫」という、部分があります。

愛子さんから見れば、そうかもしれませんが、でも、光義さんが治療したくなかったのも、病院や医者が嫌というよりも、亡くなっていった先輩や戦友のことを思ったら、治療を受けるのは、図々しいとさえ思ったのかもしれないです。光義さんはこの時、29歳でした。若い血の気がそうさせたのかも。。。

愛子さんやルミ子さんのために生きていこうという気持ちを忘れたわけでなくて、何処か男としての変な義理を通したかったようにも思えます。

そんな荒れた気持ちを抱えながらも、愛子さんと結婚したのは、愛子さんのたくましい生き方やまっすぐところに惹かれて、こんな自分でも、愛子さんと結婚すれば変われると思ったからかな…って感じます。

男の人の中には、強そうでポキッと折れそうな心を持ってる人がいます。

折れたくないから、もがいて、苦しみ、破天荒な行動をタマにするみたいです。

そうすることで、自分が生きている実感と代償を背負って生きようという、女性にはよくわからない行動があるみたいです。

愛子さんも反対されて結婚したから、他に甘えることも出来ずに大変だったことだと思いますが、少しでも光義さんとの出会う以前の状況を、理解できたらどんなにかよかっただろうと思います。
著書には、光義さんと結婚してよかったことは、「ルミ子が生まれたことだけ」亡くなったことには「正直、悲しくなかった」と書いてありました。

ルミ子さんが育った環境の中で、欠けたものがあったとしたら、それは2人の「父親」を敬う「夫を認める」姿勢を見せることじゃないかな?と感じました。

お祖父さんにしても、お祖父さんがいなければ、愛子さんもルミ子さんもこの世にいれたかわかりません。

暴力はあってはいけないことですが、命の前では繋ぎ今があることだけにでも感謝の気持ちが大切なのだと思います。

どんなに酷い親でも、この世に生を受けることができたのは、親がいたから・・・

私は愛子さんは、それを、ルミ子さんにちゃんと伝えることが出来たようには思えないです。

それは、愛子さんが早くに両親を亡くして、肉親にも縁が薄かったからと、一人で生きて行く、一人で生きて来た中での自分なりの道を歩んで来たからだと思います。

苦しい思い出がよみがえって来て、愛子さんにとって、とても敬うことができない存在だったのかもしれないけど、光義さんはルミ子さんの命の火を灯すには無くてはならない存在だったことを、早くに教えてあげていてくれたらな・・・と残念でなりません。

もっとも、頭のいいルミ子さんですから、ご自分で気づいてられると思いますが、やっぱりお母さんが大きくて、思いは常にお母さんなのではないかと感じます。

私は、光義さんも、予科練での厳しい訓練に耐えた、九州男児らしい方だったのではないかと思います。

時代が光義さんと愛子さんに、いずれは、そしてルミ子さんにも、少なからず関わっていたように思います。    (つづく)

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小柳 瑠璃色のひとみⅡ

愛子さんは、男3人女5人8人兄弟の内の下に二人の弟がいる五女として生まれました。愛子さんの父親は、鉱山の事務をしていましたが、舅、姑に子供たちと12人の大家族ですから、生活は厳しく家計は火の車でした。

お母さんは(ルミ子さんの祖母)、優しい人で、子供をたくさん生んで、肩身の狭い思いもあり、心労もあったのか、3年置きの出産もあり、末の弟さんを自分の命と代わりにするように大正12年8月8日に37歳で亡くなりました。愛子さんが3歳の時でした。

幼かった愛子さんは、お母さんが亡くなってからある日、お姉さんが目を離した隙に自転車に足を轢かれてしまい、暫くすると、愛子さんは左足を引きずるようになり、お祖母さんが手を尽くしてお医者さんを方々回りましたが、生涯の傷となって足が不自由になりました。

そして、7歳の頃に、腸チフスでお父さんが亡くなり、お祖父さんとお祖母さん、子供たちの生活となりました。

お祖母さんは、優しいかったのですが、お祖父さんは、癇癪持ちで気に入らないと、お祖母さんを薪で殴ったり、熱いヤカンを投げるような、怖い面があり「お前達の親は、おらさ捨てて、先に死んだ」が口癖だったそうです。

「一日でもいいから、じいさまよりも長く生きてえもんだな」がお祖母さんの口癖で、愛子さんのことを気にしてなくなっていったお祖母さんでした。

男なんか本当につまらない。一生懸命仕えても、報われることなく一生を終えたお祖母さんを見て、このとき、愛子さんは「ひとりで生きていきたい」という気持ちが芽生えました。

秋田に戻り仙台、大阪と流れ流れついて、福岡の上のお姉さんの元に身を寄せた愛子さんは、戦後に働きながら洋裁学校に通いました。大阪で洋裁店に勤めていて、ミシンの扱いには慣れて知識もあったので、近くの飲食店に勤める女性の洋服を縫って、学費にしていました。

やがて、長い時を得て愛子さんは、お姉さんの働いていた食堂で一人の男性と出会いました。その男性がルミ子さんのお父さん、光義さんです。

ルミ子さんのお父さんは、旧日本海軍における航空機の飛行技術などを学ぶ、海軍飛行予科練習生、略して予科練でした。戦後、生き残ったことは本当ならうれしいことなのです。

だけど、海軍の飛行予科練習生というと、いつ死ぬかわからず、死ぬことがお国のためだとされていて、目の前で、何人もの先輩や戦友が飛び立って戦死して、自分も順番が来ればその覚悟でいたのに、遂に死に切れずに生き残ってしまったという後ろめたい気持ちの人が戦後、多くいました。

ルミ子さんのお父さんも、人に言い知れぬ罪悪感から、荒んだ生活をして、賭博や女の人と遊んでいたようですが、愛子さんと出会って一緒になったら、真面目に働くと約束し、苦楽を共にした仲のいい上のお姉さんから、結婚を強く反対されながらも、二人は結婚しました。愛子さん29歳、光義さん22歳の春でした。

でも、お父さんの博打癖は治まらず、博打癖を治そうと、愛子さん自ら決死の覚悟で警察に通報したりもしましたが、治らず、愛子さんが働いたお金も博打をして散財してしまうことがあり「騙された」と何度も涙を流しました。

やがて、お父さんが車の免許を取りトラックの仕事をするようになった頃、愛子さんは妊娠して可愛らしい赤ちゃんが生まれました。この赤ちゃんがルミ子さんです。

愛子さんは、ルミ子さんが生まれて「もう、これで男はいらん」と思ったそうです。仕事はするようになっても博打癖が治らない苦労の連続から逃れたい一身からの言葉と思いますが・・・

その後、光義さんは、肺結核を患い亡くなってしましました。病院に行こうとせずに、病の体を押しても博打をしたりで、亡くなったときは悲しいという気持ちも麻痺してしまったほどだったようです。

幼いうちから、祖父の祖母に対する酷い仕打ちや亡くなったご主人の博打の尻拭いの連続があったせいか、愛子さんは、男は嫌いだと、著書に書いてあります。

愛子さんのお姉さんは洗礼を受けて、熱心なキリスト教信者になり「ジャパンレスキューミッション」という、イギリス人宣教師たちが、貧しさから売春婦になった若い女性や、身寄りのないお年寄り、非行少女、今で言う虐待を受けた女性を救済するための施設で献身していました。

愛子さんは、上のお姉さんを尋ねて仙台に行き、ここでしばらく生活していたこともあります。

愛子さんのお姉さんがここで献身していたのは、祖父に祖母がされて来たことを見ていて気の毒に思い、女を都合のいい男のオモチャや道具にされて傷ついた女性助けてあげることで、祖母を助けたかった思いをここで捧げたかったかのようです。

愛子さんがここでの、女性の男性によって、家庭によって、人生を狂わされたような実情を見たのもその後の人生に影響したように思えてなりません。

時代背景もあり、お祖父さんにも、何か成し得なくてイライラした気持ちがあり、息子さんが亡くなって、その責任を取らなくてはいけないという、プレッシャーもあったのかもしれなくて、気の毒に思います。

だからといって、自分より弱い女・子供に当たるのは。。。女を道具としか思ってないと思われても仕方がないですね。

光義さんの博打癖も、働いても働いても出口のない重荷にしかならず、大変だったことでしょうね。

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