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2010年6月

大黒摩季 ら・ら・ら

gremz:カーボンオフセット

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懐かしい漫画

gremz:リサイクル

いけいけ!バカオンナ (講談社コミックスキス (38巻))

ずーっと前に、会社の先輩に借りました。とても笑えて、泣ける内容だったと思います。

もう一回読みたくなったので、図書館にないか見てこようと思います。

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CM ナンノちゃん

可愛いですね。最近は、お母さん役も昼ドラでされていたように記憶しています。 g・絶滅動物

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福娘童話

むかしむかし、河内の国に、一人の大金持ちが住んでいました。なに不自由ない暮らしをしていましたが、子どもだけはどうしてもさずかりません。それで毎晩、長谷寺の観音さまに手を合わせてお願いをして、ついに念願の子どもが生まれました。その子どもはお母さんによく似た、美しい姫です。ところが姫が13才になった年、お母さんは重い病気にかかりました。
お母さんは、姫を枕元に呼ぶと、「私はまもなく遠い所へ行きます。私がいなくなるのは運命ですから、悲しむ必要はありません。さあ母の形見に、これを頭にのせていなさい。きっと、役に立ちますからね」そう言って重い箱を姫の頭の上にのせ、大きな木の鉢(はち)までかぶせました。そして、お母さんは亡くなりなりました。
お父さんは姫の頭の上の鉢を取ろうとしますが、どうしてもはずせません。
そのために姫は『鉢かづき』といって、バカにされたり、いじめられたりしました。

やがてお父さんに、2度目の奥さんがやってきました。この新しいお母さんが悪い人で、鉢かづき姫にいじわるをしたり、かげ口をたたいたり、最後にはお父さんをうまくだまして、鉢かづき姫を追い出してしまったのです。家を追い出された鉢かづき姫は、シクシク泣きながら大きな川のほとりにやってきました。
「どこへ行ってもいじめられるのなら、ひと思いに、お母さまのそばへ行こう」ドボーン!
 思いきって川の流れに飛び込みましたが、木の鉢のおかげで浮きあがってしまいました。鉢かづき姫は、死ぬ事さえ出来ないのです。村の子どもたちが、鉢かづき姫に石を投げました。「わーい。頭がおわん。からだが人間。お化けだぁー」
 ちょうどその時、この国の殿さまで山陰の中将という人が、家来を連れてそこを通りかかりました。中将は親切な人だったので、鉢かづきを家に連れて帰って風呂たき女にすることにしました。この中将には、4人の男の子がいます。上の3人は結婚していましたが、1番下の若君には、まだお嫁さんがいませんでした。
心のやさしい若君は、鉢かづき姫が傷だらけの手で水を運んだり、お風呂をたいたりするのを見てなぐさめました。「辛抱しなさい。きっと、良い事があるからね」「はい」
鉢かづき姫は、どんなにうれしかった事でしょう。こんなにやさしい言葉をかけられたのは、お母さんが死んでから初めてです。
それから、何日か過ぎました。若君は、お父さんの前へ出ると、「父上。わたしは、あの娘と結婚しようと思います。辛抱強く、心のやさしいところが気に入りました」と、言ったのです。もちろん、お父さんの中将は反対です。「ならん! あんな、風呂たき女など!」
「いいえ! あの娘は素晴らしい女性です。あれほどの娘は、他にはいません!」
「素晴らしい? 他にはいないだと? ・・・よーし、では嫁合わせをしようではないか。兄たちの嫁と、あの鉢かづきを比べようではないか」3人の兄の嫁は、とても美しい娘です。
こうすれば鉢かづき姫は恥ずかしくて、自分からどこかへ行ってしまうだろうと考えたのです。
さて、いよいよ嫁合わせの夜がきました。鉢かづき姫は思わず手を合わせて、長谷寺の方をおがみました。
「お母さま。観音さま。今夜、嫁合わせがあります。お兄さま方のお嫁さんは、とても美しい姫君たちと聞きます。わたしの様な鉢かづきが出て行って、いとおしい若君に恥をかかせるくらいなら、いっそこのままどこかへ・・・」
その時です。今までどうしてもはずれなかった頭の木鉢が、ポロリとはずれたのです。鉢の下からは、かがやくばかりの姫が現れました。そして鉢の中からは、金・銀・宝石があとからあとからこぼれ出ました。そこへ現れた若君が言いました。
「やはり、あなたは素晴らしい娘だ。さあ、美しい姫よ、嫁合わせに行きましょう」
屋敷の中では、3人の兄たちの美しく着飾った姫たちがならんでいます。
そこへ鉢かづき姫が、ニコニコと笑いながら現れました。「おおーっ」お父さんの中将が思わず声をあげたほどの、まぶしいばかりの美しさです。
中将は鉢かづき姫の手をとって自分の横に座らせると、若君に言いました。
「まったく、お前の言う通り素晴らしい娘だ。この娘を妻とし、幸せに暮らすがよい」
「はい、父上!」「ありがとうございます。お父さま」
 それから若君と姫は仲むつまじく暮らして、2人の間には何人かの子どもも生まれました。
ある時、鉢かづき姫が長谷寺の観音さまにお参りをしたときのことです。本堂の片すみで、みすぼらしい姿のお坊さんに会いました。そのお坊さんの顔を見て、鉢かづき姫はびっくり。「まあ、お父さまではありませんか」「姫、姫か!」2人は抱き合って、数年ぶりの再会を喜びました。
すっかり落ちぶれて新しい奥さんにも見捨てられたお父さんは、鉢かづき姫を追い出した事を後悔して、旅をしながら鉢かづき姫を探していたのです。
「すまなかった。本当にすまなかった」泣いてあやまるお父さんに、鉢かづき姫はにっこりほほえみました。「いいえ。いろいろありましたが、今はとても幸せなのですよ」
 それからお父さんは鉢かづき姫のところにひきとられ、幸せに暮らしました。 おしまい

この物語は、古くから寝屋川市に伝わる、お話です・・寝屋川の山根街道沿いに、浄土宗西連寺(さいれんじ)があります。この観音堂には木造の千手観音像と木造の地蔵尊が安置され、言い伝えによると、鉢かづき姫(初瀬姫)の父母はこの観音様とお地蔵様を信仰されていたとされています。物語は、室町時代に作られた「御伽草子(おとぎぞうし)」の中の「鉢かづき」の物語で江戸時代に加筆され、その写本の一つ居が現在も寝屋川市に残る「寝屋長者鉢記」だそうです。、これには姫の母(照見の方)の墓は西連寺にあると書かれています。

この物語を読むと、まるで日本版の「しらゆき姫」のようなお話ですね。それでも、この照見の方というお母さんが、この姫にわざわざ宝石や鉢をかぶせたのが不思議でもあります。あえて、姫に不自由をすることをしています。でも、これって本当の幸せを掴んでほしいための親の愛情なのでしょう。へんかもしれないけど、親心から別れても心配ないようにしたんですね。もし、この姫が鉢をかぶされずにいたら、美しいし、お金もあるお家だからチヤホヤされ、高慢で我儘になっていたかもしれないです。

人は目に見えることに、とらわれやすいことをお母さんは知っていたのかなぁ。お母さんの名が「照見」というのは、アマテラスオホミカミ?かと思ってしまいますね。

この物語の姫は、鉢をかぶることで、家からも追い出され人からいじめられたり、うしろゆびを指されて苦労しつつも辛抱して、懸命に働くことで人からの優しさや慈悲を知って、感謝もできて優しい若君と結婚できました。鉢をかぶらなかったら、知ることもなかったかもしれないです。この鉢は、本当に鉢だったのかこれが昔話の不思議なところですが、金銀、宝石の重さといいこの鉢といい、ダンベルと目隠しで心を鍛えていった?かのようです。そして、目隠しと鍛錬をしなくて良い時期が来て、幸せを得た??

これは、誰にも訪れることがあるお話のような気もします。幸せのかたちは、様々だと思うケド、その人に相応しい幸せが未来・・・すぐそばに待っていると思って過ごしたいですね。

寝屋川市では鉢かづき姫の石像を市内各所に配置し、付近の史跡を紹介しています。は「はちかづきちゃん」と寝屋川市のキャラクターにもなっています。

余談ですが、「スケバン刑事Ⅱ 少女鉄火面伝説」南野陽子さん主演でTVドラマもありましたが(古)この鉢かづき姫の話ををヒントに制作されたのではないかと言われる方もいます。南野陽子さんのお誕生日は今月の23日でした。24歳で結婚して出産することが夢だったそうですが、43歳で未だに独身ですね。あんなにキレイなのだけど、ご縁がないのでしょうか。。。いとこがファンでした。兵庫県伊丹市出身で2008年、伊丹市から、伊丹市をPRする「伊丹大使」の委嘱を受けているそうです。

今日も読んで頂いて、ありがとうございます。

gremz:京都議定書

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夕陽の朝焼け

今日の夕陽はとてもキレイなあかね色をしていました。リーマンさんのブログのコメント欄でも、そのような書き込みがあって、あまりキレイ過ぎると地震を心配される方もいたようです。

これは、先日、白山ひめ神社に行ったときに撮影しました。この日も緑がとても青々しく繁って、小川のささやきも変わらず、落ち着きました。写真は参道を上った一番高い、眺めのいいところですね。夕方にお参りに行くのは良くないかな?と思いながら到着時間が、遅かったのですけど、この日の夕陽は朝焼けのような?すっきりとした夕陽でキレイだな~と思ったのでした。

この日、こうして遅くに伺ったけれど、やっぱりお参りできてよかったです。感謝の気持ちを捧げてまいりました。

ちょっと○が大きいので、(これって日輪というのですか?)日の丸のようです。

今日のワールドカップは、午前3時半(現地時間午後8時半)に行われますね。

この太陽みたく、日本選手11人には輝いて決勝進出を決めてほしいです。

引き分けではなく、決定的にゴールにボールを入れて、点数を可能な限り入れて決めてね!応援してまーす。

今日も読んで頂いてありがとうございます。

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磐井の乱―隼人の乱~阿加流比売神

継体天皇が即位してからヤマトに都をおくまで約20年もかかっている点が気になっています。ヤマト王権内部もしくは、地域国家間との大王位をめぐる混乱があったことはよくわかるのですが、筑紫国磐井=九州北部の「磐井の乱」とは、どういったものだったのでしょうか。

5世紀から6世紀の初め頃にかけて、天皇の跡継ぎ問題や、有力な豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の権力争いなどで国内の政治が乱れます。このため当時大和政権が支配していた朝鮮半島の任那地方(加羅)の支配力が弱まり、任那地方と同じく朝鮮半島にある新羅・高句麗からの侵略が心配されるようになりました。
そこで大和政権は朝鮮半島の任那地方へ対新羅の救援軍約6万を派遣しますが、この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井氏へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請し、当時九州の北半分を統治していた筑紫の国造(くにのみやつこ・今で言う知事みたいな役割の人で大和政権の地方官)磐井氏にヤマト軍は進路を妨害され足止めをくらってしまいます。磐井氏のこの様な行動には当然、自分の統治している領地を大和政権から独立させたいという考えがあったのとでしょう。しかし大和政権側がこれを放置するはずもありません。
それと言うのも当時の大和政権の支配は日本全土には及んでおらず、またその支配力も絶対的なものではなかったので早急に日本全土に及ぶ支配を固める必要がありました。しかも磐井氏のバックには新羅がついており、朝鮮半島の国に任那地方だけでなく日本の国土の一部をも奪われ兼ねなかったかも知れないからです。しかし、その後もこの地は大和王権との間で争いが起こり、なかなか全土の支配が難しかったようです。

九州南部に住む人々は、熊襲(くまそ)・隼人(はやと)と呼ばれていました。隼人は、奈良時代、律令制による薩摩国(薩摩半島を主とする地域)・大隅国(大隅半島を主とする地域)建国の以前から、大和朝廷に朝貢(ちょうこう)し、一部は奈良やその周辺に移住して朝廷に仕え、宮門の警護や儀礼などを担当していました。「畿内隼人」と呼ばれたこれらの隼人とは別に、南九州には、依然として大和朝廷に服従しない隼人がいて、しばしば反乱を起こしていました。最も大きかったのは、養老4年( 720年)隼人の反乱で、隼人が大隅国の国司を殺したことから、大和朝廷はそれを鎮定するため、大伴旅人を将軍に一万人ほどの兵隊を南九州に送ります。一年数ヶ月に及ぶ戦いで、1400人余りの隼人が首を切られたり生け捕りにされたと言われます。鹿児島県隼人町には、隼人の乱に関係する史跡として『隼人塚』(国指定史跡)があります。高さ約3mの丘(盛土)の上に、多重石塔3基と、四天王石像4体が立っています。     

反乱を起こした背景に、朝廷は勢力範囲に広く律令制を導入することを試みていたらしく、九州南部においては住民の支持を得られなかったとあります。これは律令制が稲作を制度の中心に据えていて、稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適合しなかったためと言われています。

中央と九州は大昔から、何かとあるのですね。ここを治めるのは場所も離れているために大変だったことでしょう。継体天皇も大和に入られてすぐに、崩御されたためこの地の統治のことは心配だったのではないかと思います。亡くなった隼人の方たちの思いが静かに鎮まって頂けたらいいなぁと思います。

ところで南九州と言えば、鹿児島県が2位、宮崎県が3位を誇る黒毛和牛が有名ですが、福井県でも若狭牛という品種があります。福井県南部に当たる若狭国(わかさのくに)は、その昔、日本の地方行政区分だった令制国の一つでした。日本書紀に若狭国造(現・福井県南西部)と共にツヌガアラシトという、記述があります。古事記によると、ツヌガアラシトは角がある人という意味で、朝鮮半島の伽耶から渡来してきた王子であるともいわれています。古代史研究家によると、同じく新羅から渡来してきた王子「アメノヒボコ」と同一人物であるとも指摘されていて、神話があり『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述があるそうです。

ツヌガアラシトは自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行きましたが、牛が急にいなくなってし、足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまいました。ツヌガアラシトは牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受け、石を持ち帰り寝床に置くと、石は美しい娘になりました。ツヌガアラシトが喜んで娘と契りを交わそうとすると、目を離したすきに娘はいなくなってしまいました。ツヌガアラシトの妻によれば、娘は東の方へ行き娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡(九州の北東部)へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているそうです。

何だか不思議な糸で繋がっているようなお話ですね。牛の代わりにもらった白い石が、美しい娘になり、床を共にしたいと思ったら逃げちゃった。。。よっぽどキレイだったのでしょうかね。そりゃ、ガツガツしてたら逃げたくもなるでしょ。落ち着いたらよかったのにね。でも、その甲斐があってか?難波と九州で神様となり祀られているそうですから、牛の代わりということもあるので、牛さんの口蹄疫がこれ以上広がりませんようにお祈りしています。亡くなった可愛い牛さんたちが安らかに眠っていただけますように。。。

今日も長文になりました。読んでいただいてありがとうございます。

リサイクル

   


 

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テン・・・ミミズク

絶滅動物ではないですけど、福光の温泉でそういえばまた撮りました。石川では横切るとと、あんまり縁起がよくないそうです。そうなの?

と言うことなので、ミミズクで福が来るといいなー。横になってますが

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 前略、道の上より ~一世風靡セピア

一世風靡セピアは、1980年代に活躍した男性路上パフォーマンス集団・劇男一世風靡から派生したユニットです。1984年4月25日、「今、我に正直に生きてみたい」でポスターデビュー(2万枚限定)し、その後音楽活動を開始。「前略、道の上より」や「汚れつちまった悲しみに」などのヒット曲を出したものの、1989年に解散しました。メンバーは解散の際、卒団や消滅という言葉を使ったことが印象的です。リーダーの小木茂光・哀川翔・柳葉敏郎・西村香景・春海四方・松村冬風・武野功雄の7人が当初のメンバーでした。小木茂光・哀川翔・柳葉敏郎の3人は今でも、テレビや映画でよく観ます。小木茂光さんは、福井県福井市出身の俳優で現在48歳、解散後は役者へと転向して、個性的な権力者役から善人役までをこなす幅広い演技力が持ち味で、名脇役の1人に数えられる俳優さんですね。『踊る大捜査線』などに出演されて、よくお顔を拝見するようになりました。 この動画を観ていると、硬派な男たちが真剣に歌い踊っているので何だか鋭敏で神聖な感じです。「ソイヤ」は「素意や」なんだそうです。知らなかった。この動画、0:55~観た方がいいです。 でも、皆さん若いですね。スタンドマイクがあるのにバク転しにくくなかったかな?と動画を観ながらハラハラしました。スタジオは狭かった感じがします。

カーボンオフセット

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継体天皇~今城塚古墳・高槻~

淀川水系の最初の天皇と言われているのが「継体天皇」 です。4世紀、殆ど古墳は大和に築かれ、5世紀には河内や泉平野に造られました。それまでの天皇(大王)墓が大和・河内・和泉という大和川水系にあったのですが6世紀になると今城塚古墳など淀川水系に移っていて継体天皇はその淀川水系の天皇(大王)誕生となりました。

宮内庁は大田茶臼山古墳を継体天皇の墳墓としていますが、真の継体天皇陵である可能性が以前から高い今城塚古墳について、もう少しよく知っておきたいと思いました。

今城塚古墳は現在日本で唯一、一般市民が自由に立ち入る事が出来る「天皇陵?」とも呼ばれています。(但し、現在は市民の公園として整備中で立ち入り禁止中です。平成23年完成予定)戦国時代、出城が築造され今城塚と呼ばれていました。今城塚古墳の墳丘の荒廃がとても著しくこれは、戦国時代に三好長慶がこの古墳を利用して出城を築いたといわれていましたが、調査の結果、築城に際し大規模な工事を行える、鉄砲隊を組織していた武将であることなどから、永禄11年(1568年)織田信長が三好長慶攻めの摂津侵攻に際してここに築城し陣地としたらしく、継体天皇陵を最初に切り崩したのは、織田信長である可能性が大きいとされています。しかし、その後の発掘調査の結果1596年(慶長元年)の伏見大地震による伏見地震の地滑りによる変形が主な原因であるとの見方が強まっています。

慶長伏見地震は-1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0~7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続きました。この年に起きた地震は伊予国から始まり1615年まで日本各地で起こり慶長地震と呼ばれています。

今城塚古墳は地震の時、陵墓は大きく崩壊し、内堀の大半が埋まったと伝えられています。陵墓は単に土を積み上げただけの小山に過ぎませんが、内部には大王の 玄室があります。この玄室は単に巨石を組み合わせただけのものですが、その玄室は雨水や地震による崩壊から守る為に様々な努力がされています。古墳の内部に埋められた、排水溝には玉石が並べられ内部の漏水を外部に排出し、現在も陵墓の玄室を守っています。排水溝端末には排水口まで組まれていました。
それは玄室の漏水を排出する為でもあり、古墳全体を守る為のものであるそうです。雨の少ないエジプトのピラミッドと異なり、雨の多い日本では古墳は主に土で出来ています。今日まで伝統的に多くの国民に大切に守られて来た事もありますが、その隠された保存の技術がこの、今塚古墳の調査により証明もされています。

昨日の記事では、騒がしくて眠れなさそうと書きましたが、想像の仕方を替えますと、たくさんの人と交流をしながら政権を築いた、継体天皇にとって開かれ人が賑わい楽しく過ごせる空間に眠れるのは、寂しくなくまた違った意味でいいのかもしれません。ひっそりしている陵墓も亡くなった方を偲ぶには、いいけれど近づきにくい感じもあり味気ないかもしれない。。。ただ、お墓がどちらかと言うよりも敬い慕い、感謝する気持ちが大切で継体天皇という、存在をもっと知る機会があれば、故人は満足されることかと思います。跡継ぎがいない中で「継体」というその名の通り、皇室をつないでいただいたその深い思いに感謝したいです。58歳という年齢で皇室のためにそれまでの妻をおいて手白香皇女を娶って、皇室の血を大切にして、二十年かけてヤマト入りした苦労を思うと、本当に大変だっただろうと思います。八十近い年齢で自分のことでなく国のことを考えて、一心に国づくりに励んでおられたかと思うとその精神力の強さとバイタリティは、この時代の方にしては長息の証拠みたいです。今城塚古墳は市民の公園として整備される予定ですが、市民が自由に散策出来る状態も、大王のお人柄そのままなのかもしれません。器の大きな懐の深い方だったことでしょうから、「もう昔のことだから、構わないけどね・・・お墓違ってるよ」と苦笑いはされてるかもしれませんが、細かいことに気にすることなく恨んだりはされてないでしょう。返って、子孫の古墳や土器、埴輪などの貴重な発掘に役立てたことに、「よかったね」と軽く思ってらっしゃるかもしれません。有難いことです。天皇家のお墓状態を見せて頂けるのですから。

また、この地域では地震も心配です。有馬―高槻は近畿有数の活断層帯で、全長約五十五キロ。兵庫県の被害予測では、マグニチュード(M)7・7の想定で県内死者が最悪約一万二千人に達するとしています。 「有馬―高槻断層帯」について、これまで不明確だった西側の断層が動いた直近の地震が、東側と同様、一五九六年の慶長伏見地震である可能性の高いことが、兵庫県地域活断層調査委員会(岡田篤正京大教授)で分かりました。同断層帯の活動間隔は千―二千年とみられており、岡田教授は「地震発生の切迫性は低くなった」としていますが、太田茶臼山古墳は、宮内庁が認めてる継体天皇の陵墓ですからこちらが地震で崩れては、大変です。私たちが生きてる間に地震はなくても、命の先にある未来の子供たちが幸せに生活できるよう、地震が来ないことを願います。そのためにも、悠久の年月をかけて今に至る私たちに与えられた命を、感謝しながら生きて命から命へと、美しい心でバトンを渡して未来を担って行けたら良いなぁと思います。

この継体天皇の陵墓が高槻にあるのは、ずっとこの地を守り、見守っていけるかのように選ばれた大切な地点なのかもしれません。越前開闢の御祖神、現皇室の直接の始祖、継体天皇にはここに鎮まって頂いて、有難い気持ちでいっぱいです。

今日も長文を読んで頂いてありがとうございます。

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継体天皇~今城塚古墳~

継体天皇の出自を巡る、論争があるそうです。武烈天皇に、世継ぎがいなかったために王朝断絶の危機に陥り、重臣達は会議を開き、大伴金村は、丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あたり)にいる仲哀天皇五世の孫である倭彦王(やまとひこのおほきみ)を迎えて皇位につかせようとしましたが、王は整列して行進してくる兵士を見て山中に逃げ去ってしまいます。そこで金村は物部鹿鹿火(もののべのあらかひ)、許勢男人(こせのおびと)らと協議して、今度は越前にいる応神天皇五世の孫である男大迹王(後の継体天皇)を迎える事にしたといわれています。男大迹王は、応神天皇の五世の孫で彦主人王の子で、母・振媛は垂仁天皇の七世の孫であったというものの、継体天皇は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐・説)もあり、この特殊な即位事情を巡っては種々の説があり、その謎はまた魅力にもなっているのかもしれません。しかし、その血の薄さを補うためか、継体天皇は応神直系の手白香皇女を娶っており、現在の天皇家の祖である欽明天皇を産んいます。少なくとも女系では応神の血筋は継承されていることになり、継体天皇はその血筋を大切にしていた方ともいえます。

その継体天皇は、『日本書紀』に、継体天皇531年2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあと、同じ年の12月に大阪府茨木市太田にある太田茶臼山古墳(全長226メートル)藍野陵に葬られたとなっています。が、大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある前方後円墳・今城塚古墳が、その古墳の形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定されていて、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっているそうです。今城塚古墳は淀川北岸では最大の巨大な前方後円墳で、古墳の規模は全長約350m、墳丘の長さ約190m、前方部の幅148m、高さ12m、後円部の径約100mとされています。かつては墳丘や内堤にはハニワをめぐらし、二重の濠を持ち広大な墓域を誇っていたようで、かつての周濠の一部が2004年まで残っており、水で満たされていました。

しかし、大田茶臼山古墳 の一部を修理のため宮内庁職員により発掘調査された結果、出土した土器の年式が継体天皇の没年を100年以上遡るものであり、これが継体天皇陵である可能性は事実上否定されてしまいました。ところが、平成14年(2002)11月22日宮内庁は、継体天皇陵に指定している太田茶臼山古墳の墳丘部で、護岸工事に伴って進めている発掘調査現場を報道陣と研究者に公開したところ6世紀前半に没した継体天皇の時代より約80年古い5世紀中ごろの埴輪が、埋葬された当時の並んだ状態で確認できました。継体天皇陵は「被葬者は別人」とするのが学界での定説でしたが、本体の墳丘部で継体天皇の没年よりかなり古い埴輪が出たことで「別人説」を裏付ける有力な「物証」にもなり得ました。

継体天皇陵は86年にも護岸工事に伴い、周囲の濠(ほり)の外堤が研究者らに公開され、5世紀中ごろの埴輪の破片が確認されたそうですが、平成14年の調査では、古墳の本体である墳丘が初めて部外者に公開され円筒形や上部がラッパ状の埴輪など、86年に確認されたものと同時代の埴輪が多数出土しているそうです。並んだ埴輪もあり 86年に堤から出土した埴輪は、形や刻まれた印などから大阪府高槻市の新池遺跡の窯で作られたものとわかりました。この窯は科学的な年代測定で、450年頃のものと判明し継体天皇の没年は日本書紀では531年とされているため、埴輪の年代と一致しないことが指摘され、被葬者は別人とする説がますます有力になっていきました。

この古墳が真の継体天皇陵であるとしたのは、歴史学者の故 天坊幸彦氏でした。天坊氏は古代条里制(古代の土地区画法)を研究し、摂津の国嶋上・嶋下両郡の境界を示して嶋上郡にある今城塚古墳こそ、延喜諸陵式にいう[継体天皇三嶋藍野陵]であるとされました。この説は考古学の古墳の年代感からも裏付けられています。

天皇陵といわれる古墳は、大和・河内地方に集中していますが、唯一継体天皇陵のみが攝津の地に営まれています。継体天皇の出身地でもない摂津になぜ陵墓が築かれたか明らかではありませんが、淀川とのちの山陽道を間近に望む沃野(よくや)に大王陵を誇示することに、その意義が何かしらあったと考えられます。

真の継体天皇陵である可能性が以前から高く、戦前《1935年-1944年》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われいました。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しています。

明治以後、学問的な裏付けから陵墓が指定変更されたのは、1881年に天武・持統陵が見瀬丸山古墳(奈良県橿原市)から野口王墓(同県明日香村)に変更されたケースだけ。天武・持統陵が鎌倉時代に盗掘された時の内部の実況見分記録が前年に京都の寺で見つかったためだからです。 約240ある古代の陵墓古墳を非公開にしている宮内庁は災害復旧工事や補修の際に一部を研究者らに限り公開する程度です。

探索すると、色々なお話が出て来てこの継体天皇に関わるお話は奥が深いように思います。特にこの古墳の話しは、学説と宮内庁の見解が違うために当時の新聞でもよく取り上げられています。難しいですが、天皇家の墓だとはっきりとした記録がなくて、恐らく天皇陵ではないだろうと?発掘調査をしてみたら今までに見たことのないキレイな状態で、埴輪祭祀(はにわさいし)などが出てきて、やっぱり天皇陵みたいけど、畏れ多い天皇家のお墓を発掘したことが、それが本当だと大変だーって思って宮内庁は認めたくなかったりして(゚ー゚;誰だってお墓を掘り起こすなんてことはされたくもないですものね。

間違いとわかっていても認めたくないかもしれない。だけど、埋葬された継体天皇にしてみると、もし今城塚古墳に眠られていたとしたら、いい気持ちはしないでしょうね。1997年(平成9年)11月から古墳の発掘調査が始まり、それに伴って古墳の形状に変化が出始め、2004年から史跡公園としての整備工事が始められています。特に、2005年から周濠の水抜きが始まり、古墳一帯の立ち入りが禁止されてからは、古墳にかなり大きな変化が見られるようになってもいるそうですから、一般の方の出入りも許されて騒がしく失礼なことをしているのかもしれません。全長190mの前方後円墳が何も整備をしていないので荒れ放題なのだそうです。こちらがもし継体天皇陵だったらどうしましょう。それも現皇室の直接の始祖かもしれない人物の陵墓が、こんな崩壊というか、史跡公園になっていいわけもなく、これって問題ありなんじゃ?罰とか祟りないですか?と心配になりました。しかし、この経緯があるからこそ貴重な埴輪や祭祀をした場所などの多くの考古学の学びを得ることも出来たのも事実です。それは、日本が古くから神様を大切にしていたのと天皇への敬意を表した埋葬の方法を、歴史から知ることもできたと思います。今頃は発掘調査に当たった方も「ごめんなさい」と謝っているかもしれません。有難いけど、ごめんなさいな気持ち。。。うまく、表現できなくてすいません。今日も読んで頂いてありがとうございます。

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地球温暖化を防ごう~クイズ

Q. 地球温暖化を防ぐのに役立ってくれるのは?

答。②植物や森林

木や草などの植物や、その植物が集まった森林は、地球や人にとって大切なものです。植物は光合成といって、温室効果ガスといわれる二酸化炭素を吸収して、酸素をはき出しています。

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ひとやすみ×2

食物連鎖 クイズ

もっとも高次の消費者はどれでしょう

①みみず ②とんび ③とかげ

正解は②とんび

みみずは消費者ではなく、腐敗物などを分解する分解者。

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継体天皇・越~樟葉宮

継体天皇が即位した、河内国交野郡樟葉の宮を選んだのは何故でしょうか?それが疑問だったのでもう一度、この周辺を探索してみることにしました。507年2月4日河内国樟葉宮で即位し、山城国の筒城宮、弟国宮と3か所に宮をおいてヤマトに入るまでに約20年かかった理由も知りたくなり調べてみました。このことは記録がなく推察されるお話が多いのですが、想像するのもまた楽しくもあります。
継体天皇がすぐにヤマト入りしなかったのは、北河内、中河内の豪族を視野に入れてのことらしく、天皇は、当時から国際感覚に秀でていたこともあり、また、枚方は淀川水系の要衝の地と言われていて、それをを計算の上で自分でこの地を選んだと見られています。馬の飼育が盛んな地域でもありました。ヤマトの様子を知る為には、情報を得ることが必要でした。

そこで現れるのが、河内馬飼首荒籠(かわちうまかいのおびとあらこ)です。荒籠は、河内の馬飼いの首領と呼ばれていました。河内馬飼いの本拠地は四條畷辺りと言われていましたが、発掘調査が進んで来ると、枚方の古墳で馬具が出土しています。荒籠は馬という交通の手段を使うことから、日本海を越えて半島と交易していた大王とは親しい仲であったのではないでしょうか。越からヤマトに入るには勇気が入り情勢を知り動くことが重要でした。豪族の全てが味方とも言えなかった為に、すぐにヤマトに入らず荒籠の本拠地である樟葉で即位したのは賢明であったと言えます。

樟葉は昔から交通の要衝で、ヤマトから出ると樟葉の渡しを渡り北陸道、丹波道、西海道へと通じて行きます。ヤマトを伺いながら退路も確保し、強力な協力者がいる樟葉はこれ以上にない土地だったと言え、また、大王は荒籠を信用していたから天皇を引き受けたと言ってもおかしくはないでしょう。馬は軍事にも交通にも使え、河内の馬文化は継体天皇の即位と合わせて広がって行ったと言えます。

樟葉宮は、岩清水八幡宮が鎮座する男山の西麓の丘陵上に位置し大阪府枚方市樟葉にある、桓武天皇が父の光仁天皇を祀ったという交野天神社境内の社殿の右をさらに奥へ行く、本殿の北東に貴船神社の末社があり、この場所が継体天皇の樟葉宮跡と伝えられています。森のそばまで住宅地化していますが、参道の入り口にたたずむと森の奥から、すがすがしい風が流れ、細やかな砂利敷きの参道を進むと、一間杜流造りで市内最古の木造社殿があります。ただ、ちょっと残念なのが、即位した樟葉宮に貴船社が建てられそこに継体天皇も、祀られているのが私的に余りいい感じがしませんでした。神社がある、本殿って小高い山の上にありそこまで登って、参拝するイメージがありますが、継体天皇が祀られているのは貴船神社の末社となっていて、これだけ国やこの地で活躍した天皇が末社になるのが?でした。本殿に祀られている、光仁天皇は49代の天皇でもあり、継体天皇の子孫に当たるのですがこれは順番が合っているのでしょうか?由緒書きによれば、「桓武天皇が、この地に郊祀壇を設けて父・光仁天皇を天神(アマツカミ)として祀った。これは中国の皇帝が、毎年の冬至に天壇を設けて天神を祀った例にならったもので、この郊祀壇が当社の起源」とあります。“天神”といえば“テンジン”と読んで菅原道真を指すのが普通ですが、この創建由緒から、“天神”は“アマツカミ”と読み、ここに合祀されてもおかしくないとも、思うのですがその宮跡を永遠に記念せんがためか「交野天神社創始以前からの氏神・貴船神社タカオカミをこの地に遷し、継体天皇をあわせ祀り奉る」とあるので、昔っからのことなのでこれがいいのでしょうかね。

1984年(昭和59年)10月に、枚方市制35年を記念し、枚方市民から候補地を募集して制定した8箇所の景勝地で枚方八景にこの樟葉宮が認定されたましたが、継体天皇を祀ってある神社は福井の足羽神社が一番大きくてその地も、天皇が樟葉宮に発つことを案じて自らの御生霊を鎮めたとされています。他の子孫によって祀られていないので、少し気の毒です。全く関係はないのですが、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に福井地震が発生し、福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震があります。震源は、福井県坂井郡丸岡町(現、坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震で規模はM7.1で死者・行方不明者 3,769名負傷者 2万2203名全壊 3万6184戸半壊 1万1816戸焼失 3,851戸と、死者数では、阪神・淡路大震災に次いで、戦後日本で2番目に多い被害を出したとされています。

越前開闢の御祖神とされ、皇室の存続と伊勢神宮の設立にも尽くしたと言われている継体天皇が、きちんと祀られていなかったのは残念なことでした。天皇になってほしいと懇願されて場所を変えながらの宮入りだったために、こうなったのかもしれないのですが、この方がいるからこそ、現在の皇室もあるのですよね。

伊勢にお参りさせて頂いているご縁からも、せめてその功績を知り感謝を捧げることがお社はなくても、ご供養に繋がりまたこれからの皇室の未来も明るいものになるのではないかなー?!と一人、思いを駆け巡らせていました。

想像と推察も入りますので、至らない点はどうぞご容赦くださいませ。

長文を読んで頂いてありがとうございます。(つづく)

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継体天皇と坂井古城マラソン

6月6日は福井の「坂井古城マラソン」に参加してきました。今年で5回目という、若い?企画の大会です。丸岡城をスタートして、霞幼保園という変わった名前?の施設の交差点を曲がり、国神神社がある近くの交差点を曲がり丸岡城を辺りを周って、女形谷Pがある北陸自動車道の方まで走り、野中山王三叉を折り返しするハーフのコースでした。福井の歴史をよく知らなかったので帰って来てから調べたのですけど、私的に隠された歴史を発見しました。

坂井市は紀元前から坂井平野一体は湿地帯であったと考えられていて、九頭竜川の氾濫がたびたびあり、そのためか?水や島に関わる地名が多くあるそうです。(牛ケ島、磯部島、舟寄、長崎、高瀬、四ツ柳、筑後清水,田島、福島など)人々は水害にあわない高台に住居を構え、農業を営んでいましたが高田、野中山王、大森、鳴鹿はその当時は土地が高台になっており、水害にあわない地域だったと推測されます。なぜなら野中山王や山崎三ケでは、古墳がたくさん発見されているからです。川は豊かな恵みの水を運び、また、氾濫は一方では肥沃な土地を運び、豊かな農地をつくることにもなりました。この丸岡地区が古くから農業が発達したのは近くに大きな九頭竜川があったからと言えるます。

古墳時代の「鳴鹿」や「明章」地区は『越のまほろば物語』の舞台の一部になっていたことで有名だったそうで、この度はじめて知りました。北陸最大規模の「六呂瀬古墳群」があることから、この地域は今から1500年位前、豪族が多く出て、非常に栄えた地域でもありました。
西暦450年頃、母・振媛に寵愛された男大迹王(おおどのおおきみ・第26代天皇 継体天皇 西暦507年~531年在位)が成人するまで育った場所や大王にまつわる伝説が残っている場所が、この明章地区や坂井町、春江町、三国町なのだそうです。大王は福井平野、坂井平野の治水や開拓にご尽力されていましたが、506年に武烈天皇が、跡継ぎを定めずして崩御してしまった為に応神天皇の5世の孫ということから、急遽擁立された天皇でした。遣いの者が迎えにいくと王はゆったりと腰をかけ、家臣を整列させ、既に天子の風格があったと言われている人物で日本書紀には「成人した天皇は、人を愛し賢人を敬い心が広く豊かであった」と記録にあります。

人柄だけでなく、頭脳明晰でもあったようで王は越にいながら、中央の情勢もしっかりと把握していたと見られるています。その理由に当時の最速の交通、情報手段とも言われている、馬を使って情報を得てネットワークを広げ東国地方の豪族のバックアップを受けながら承諾し、58歳にして507年2月4日河内国交野群樟葉宮(くすばのみや・現在の大阪府枚方市樟葉)において即位しました。ヤマトの王権との結びつきを強めるため25代武烈天皇の姉(妹?)にあたる手白香皇女を皇后に迎えて、皇女を含めて9人、古事記には7人の妃がいたとされていますが、そのお陰か?その後の跡継ぎには苦労しなかったようです。継体天皇は即位後、すぐにヤマトには入らず511年山城国の筒城(つつき)宮=京都府京田辺市、518年山城国の弟国(おとくに)宮=京都府長岡京市=へと淀川の近くの3カ所に宮を置いた後、即位から19年後の526年ようやくヤマトの磐余玉穂(いわれたまほ)宮に入られました。

即位してからヤマトに都をおくまで約20年もかかっているのは、ヤマト王権内部もしくは、地域国家間との大王位をめぐる混乱があったことや、東アジアの国際関係が緊張していた時期で、512年任那(みまな)の4県を百済に割譲した半島政策を巡って筑紫国磐井=九州北部の「磐井の乱」が起こり大伴金村らを派遣して鎮圧に要したと言われています。527年80歳で亡くなられたと、『古事記』に記録があり、だとすれば、ヤマトに入られて翌年に亡くなったこととなります。

この継体天皇のことを知るようになった中で、伊勢白山道のブログをいつも読ませて頂いている私にとって、とても興味深いことを知ることが出来ました。

5世紀後半から古墳の規模が縮小し始め、ほぼ同時に神社が各地で設立され始めたとされていますが、祖先祭祀の場=集団間統合の場が、古墳から神社へと移行していったとも言われていて(ヤマトから招かれ日本海地方から天皇に就いた継体天皇の時期にあたる。)東国地方の豪族の支持を受け即位した継体天皇が、伊勢神宮を設立した!?という説があるのです。広範な地域を画一的に統治できる神社ネットワークの広がりにより、国内統合がより安定化し、大王家を中心とするヤマト王権は、この神社の祭祀とネットワークを利用し、徴税システムを整備し始めることができたとされています。

知りませんでした~。この継体天皇ってすごい方だったのですね。この時代に馬を使って東国と連絡を取ること事態が、スゴイと思います。情報収集をした上で簡単にヤマトに入らずに、段階と時期を見ながらヤマトとの距離を近く取って宮入するのは、先を見通すような勘というか力を持った方だったのではないかと想像します。継体天皇は幼くして、父の彦主人王と死別したため、母の振媛は「遠く故郷を離れ、うまく子を養うことができない。里に帰って親を養いながら育てたい」と越へ大王を連れて戻られたとされています。

きっと、母の傍らにいて父がいないから、自分が母を守るとの思いと、家を守るためそして越を治めるためにも、よく土地や国の情勢について知ろうという思いが後の継体天皇の統治能力となったのではないでしょうか。。。そして、越をよく知ろうとした時に民衆とも触れあい、地形を調べ活かして、大規模な治水を行い九頭竜川足羽川日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓し成功しました。このような伝承から越前開闢の御祖神とされています。このため越前は実り豊かな土地となり、人々が定住できるようになりましたた。続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させて、天皇即位のため越前を離れることになるとき、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女を斎主としてあとを託したといわれています。(御生霊っていいんですかね(^^;?)自分がいなくなった後も、民が安心して暮らせるようにとの父親のような愛情からでしょうか。父を殆ど知らずして、育ちながらも大きな心の持ち主方だと思います。

すいません。歴史探訪をしていたら長・長文になってしまいました。マラソンの方は暑くて頭がぼーっとした中で、福井の優しい方々に応援されながら、いっぱい人に抜かされて(^^;いましたが、ハーフだったので、フルのことを思えばまだ終わった後もこうしてブログを書けるほど元気でいます。これも、暑い中、給水ポイントなどにいてくれたボランティアさんや地元の方々のお陰です。ありがとうございます。

長い文におつきあい頂きまして、ありがとうございます。

最初、継体天皇と変換なかなかしなくて、携帯天皇になったりしました。でも、ちょっと思い当たる方が。。。。あはは~wink

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Madonna Vogue

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華厳譜

情報冊子を読んでいたら神戸で、トリノ・エジプト展が5月30日まで開催されていました。気がついたのが遅かった。「アメン神とツタンカーメン王の像」など、日本初公開の品が120点公開されていたそうです。次は6月12日から、静岡で開催されるそうですが、静岡まで行けないな。。。

先日、走ったとやま清流マラソンの完走証が送られてきました。タイムは目も当てられないものですが、いい記念です。

神通川のことを考えてたら、このトリノ神岡鉱山の跡地に建てられ東京大学宇宙線研究所のニュートリノ観測装置「スーパーカミオカンデ」を思い出しました。スーパーカミオカンデは岐阜県の北の外れ、飛騨市神岡町にあります。高さ1360mの「池の山」の地下に巨大な空間を掘って作られました。なぜ1000メートルもの深さの地下にスーパーカミオカンデが作られたというと、地上には沢山の粒子が飛んでいて目的の粒子、「ニュートリノ」を見つけにくいために、邪魔な粒子は岩盤にさえぎられ、地下深くまではほとんど届かないからだそうです。また神岡には、日本一堅い丈夫な岩盤があり、地下にこのような巨大タンクが入る穴を掘ることが出来、何よりも神岡には、純水を作るのに都合の良い、きれいな湧き水が沢山あったからこそ、ここに実験装置が作られました。そして、2002年小柴 昌俊教授がノーベル物理学賞を受賞し、その研究に最も貢献した場所となっています。

神岡鉱山から排出された、カドミウムによって神通川は汚染されイタイイタイ病を発生もしましたが、その一方で跡地に作られたのカミオカンデ、スーパーカミオカンデは小柴昌俊教授がノーベル物理学賞を受賞する源となった研究地にもなりました。

5月の連休の時に、富山の福光にある「棟方志巧記念館」に行った際にこのような版画を見つけてフォトしました。棟方志巧は、本家のHPでもよくリーマンさんが取り上げられる日本を代表する、日本美術史上に大きな足跡を残したの板画家ですが、昭和11(1936)年秋、板画『華厳譜』制作がされます。

「仏の慈悲の光が毘盧遮那仏(びしゃるなぶつ)に集約され、その光があまねく衆生を救う」という華厳経の世界を、棟方は、毘盧遮那仏を中心に置き、その左右に釈迦如来と阿弥陀如来、普賢菩薩と文殊菩薩、さらには経典には関係のない風神と雷神のようなものまでを配した「23柵(点)」から成る作品にしました。これは一種の曼荼羅のようなもので、全体を通して見てはじめて一つの作品になるそうです。この作品を観て、陶芸家の河井寛次郎氏が寄せた、手紙の一文を作品として己の戒めと励みにしていたようです。

内容は「遺憾なことに、大抵は痛ましいことから、本物は生まれるものだ

本当に遺憾なことでもある、公害というあってはいけない病気を排出した鉱山、三井金属鉱業ですが、鉱石の採掘を中止した今、資源の“鉱山(やま)”から科学の進歩を生み出す“鉱山(やま)”へと変化してきています。

病気に遭われた方のことを思うと、悲しみが広がり辛くもなりますが、採掘を止めたことで日本が誇る研究をされる土地にもなりました。それは、今までの長い反省とこの土地を活かす改善の努力を何より考えたことなのかもしれません。

痛ましいことの中から、咲き開く花は蓮の花のように立派で美しいのだと、痛感しました。光の当たる華の部分ばかりに目を奪われますが、根は今を繋ぐ大切な部分です。蓮の花の下の根は泥の水の中にあります。美しく華が咲くことが出来るのは、根があるからなのです。その根の存在を忘れることなく、日々、感謝を捧げながら生きていきたいものです。

スーパーカミオカンデは東京大学宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設を中心に今も
日本、米国、韓国、中国、ポーランドからの32の大学、研究機関との共同研究で行われています。

長文を読んで頂いてありがとうございます。                                                    

                                     

                                      華厳譜

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プリンセス プリンセス

今月は父の日、強化月間のようですが。。。。。懐かしい名曲です。

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ちょっとCM

父の日が近いですが(またです)今、時の人、沢尻エリカさんのこんな可愛いCMを見つけました。女の私でも素直に「かわいいな~」と思ってしまいます。沢尻さんをはじめて見たのは、お昼の連ドラで「桜の咲くまで」でした。とても可愛いし、ところどころに見せる芯の強さがドラマの演技の中からも、伝わって来ました。その後の活躍は言うことはないほどですね。お母さんは、アルジェリア系フランス人のハーフで3人兄妹の末っ子でだそうです。上がお兄ちゃん2人だと、気も強くなると思いますね。でも、それが今の彼女を、良くも悪くもつくっているのだから。。。世間を騒がせてるけど、まだ若くて周りに気遣いできるようになるには色々な経験を積んでからなのかもしれないです。自分が周りにコントロールされずに自分らしく、芸能活動をしたい感じがあってそれが周りとうまく、溶けこめてないように思います。それが、我儘に見えたりしますが彼女なりに、自分らしく生きるためにもがいているのかもなーって思います。 今は何だか心配な時期ですね。人気女優の辿る道をそのまま歩いてるように感じます。宮○りえちゃんや広末○子ちゃんのように。。。古いけど「プッツン」な時期が来てるのかもしれません。これを乗り越えれば、また以前のような評価につながる演技もできるのじゃないでしょうか。 avexに変わって、ダンスや歌をしたいのかもしれませんが、元は女優で才能を開花された方だと思うので自分の得意な分野で活躍されてはーーーと私が一人ごとを言ってもしかたないですけど。本当に彼女を見てると心配ですね。ヌード写真集なんて出さないよね??と。。。

中学3年の時にエドノコバン他、16頭の競走馬の馬主でもあった、お父さんを亡くされているそうですが、家族が大好きな沢尻さんですから当時は辛かったでしょうね。高城さんと結婚したのは、お父さんと早く別れたのを、象徴しているかのように感じます。。。。。

亡くなったお父さんを悲しませることのないように今後を楽しみにしています。でも、私は特別なファンではありませんので。。。可愛い方が好きなだけです。あはは~

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